史上のナビゲーターとして使われた7人の百済王 | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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故生野眞好先生の勉強会や月刊誌フォーNETの記事の概要などを紹介しています。「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国=糸島平野、ヤマト王朝(銅鏡)と先興の奴国王家(銅鐸)との宗教対立、神武の実在など「記紀」が示唆する古代史の解読です。

 前回は、「神功皇太后摂政紀」に書かれている神功の没年の「己丑」は夫である仲哀(壬戌:362年没)と息子の応神(甲午:394年没)のそれぞれの没年の間にある「己丑(389年)」だとする生野先生の考察を紹介しました。

 今回は、『日本紀』が神功の没年をその389年から120年前の269年の「己丑」に移し替えていることの考察です。

 実年代を「還暦60年✖2回」の「120年前」に移す方法は、ここの「神功皇太后摂政紀」と次の「応神紀」の中だけに見られる特徴で、その二代紀の中に「百済王(7代分)」の系譜も同じように「120年前」に移し替えて書かれている。

 

 『日本紀』が百済王の系譜を「還暦60年✖2回」の「120年前」に遡らせていることは、日本の古代史学界ではほぼ定説として周知されているが、なぜ、『日本紀』はそのような煩わしいことをしたのだろうか?

 その第一の目的は、「神功と応神」母子の実年代を教えるためであり、「神功皇太后摂政紀」は、「卑弥呼と臺与」の時代に設定されてはいるが、神功が卑弥呼と臺与の「二人の女王」と同一であるはずもなく、「卑弥呼と臺与」そして「神武」よりもさらに後の時代の女性だったはず!その実年代を教えるために、「神功と応神」母子の頃の「百済王の系譜」を一緒に「120年前」に遡らせたのだろうと推察できる。

 「摂政紀」や「応神紀」に挿入されている6人の百済王の没年は『三国史記』の百済本紀と照合すれば、すぐにその実年代が解るし、「神功皇后の崩御年も実年代に戻しなさい」という意味合いだと思われる。

 つまり、実年代より「120年前」に挿入された「百済王七代の系譜」は、神功の実年代を教えるための「史上のナビゲーター」としての役割を担っている。

 ただし、「神功皇太后摂政紀」のすべてが120年前に移し替えられているのではなく、244年から269年までの「26年間」だけが移し替えられているのですが、詳細は別稿に・・・

 生野先生は、この『神武天皇』を出版したらすぐに「神功皇后」を出版されるつもりだったようで、この著書の中に「詳細は別稿で」という言葉が何回か出てきます。

 ちなみに、表の『三国史記』百済本紀の⑥→❻「腆支王(直支王)」、⑦→❼「久尓辛王」が120年ではなく126年となっている理由も「詳細は別稿」としてあります・・・・チーン

 病床で出版された電子書籍『神功皇后の実在性と実年代を読み直していますが、該当する説明文はないので、やはり次に出版する「本」に書くつもりだったんだろうと思います。

 随分前ですが、2016年(H28年)1月勉強会②に「摂政紀の設計」について書き込みしています。よかったらご参照ください。

 次回は「神武親子」と「神功親子」の編年上の隔たりについて生野先生の考察を紹介します。