神功新羅征伐の史実と実年代:H28年1月勉強会 | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

平成28年1月の勉強会の概要です!
 
昨年から引き続き「神功皇后の実在性と実年代」を主テーマに、
今回は、
①神功と武内宿祢は、「奴国系王族の血筋」(ヤマト王朝万世一系の断絶)
②神功の新羅征伐の史実と実年代(神功皇太后摂政紀の設計図解析
③応神と仁徳の謎
について説明がありました。
 
 この神功皇后や応神天皇に関する生野先生の見解はすでに勉強会やフォーネットでも数回紹介していますので、そちらも参照してみてください
とは言え、ここの説明は非常に手ごわく、なんとか自分なりに概要をまとめようと挑戦しているのですが、毎回挫折というか消化不良のまま文字を羅列しているだけなのですが・・・・
 
 フォーネット平成24年4月号
 
 フォーネット平成24年5月号①
 
 
 フォーネット平成24年5月号②
 
 勉強会平成24年4月①
 
 勉強会平成24年4月②
 
 勉強会平成27年8月④
 
 勉強会平成27年8月⑦
 
 
 勉強会は毎回、初めての参加者のために復習として、邪馬台国や「記紀」に関する生野先生の大前提の考え方が説明されます。
 
 <大前提>
 ※生野眞好著「魏志倭人伝解読」や「陳寿が記した邪馬台国」のほか、このブログの過去記事を参照してください。
 
 国都の邪馬台国は「糸島平野」にあり、伊都国は「糸島半島」に在った。
 
 ②弥生の中心・「葦原中国」とは国都であり、その場所は「糸島平野(旧前原市+二丈町)」
 
 ・葦原中国=国都=人口が集中している当時の政治経済の中心地(人のいない山頂ではない!)
 
 ・2世紀末の「倭国大乱」は「国都」争奪戦を意味している。
 
 ・その戦いの主役は銅鐸祭祀の「奴国王家」と祭祀の「ヤマト王家」であり、それは「宗教対立」でもあった。そして勝利したのは「ヤマト王家」側だった!
 
 ・敗北した「奴国王家」は出雲に逃れ(追放?)、オオナとスクナの二人で国作りを始めるも、やがれ3世紀初頭、糸島ヤマトに登場した女王卑弥呼によって征伐され、出雲奴国は「女王の境界の尽きるところ(魏志倭人伝)」となった。
 
 「記紀」では、その最果ての地「出雲国」や「因幡国」一帯を「葦原中国」から見て「根の国」と表現している。この時からヤマト一国の女王だった卑弥呼は30国に共立された民族の代表「倭王卑弥呼」になった。この時が実質的「大和王朝」の開闢と言える。
 
 以降、王権と国都を譲った奴国王家はヤマト王家によって蔑称で呼ばれることとなる。
 <例>
 ・ヤマト王家の支配する国家=「葦原水穂国」
           ⇕
  奴国王家の国家=「の国」(最果て国)
 
 ・ヤマト王家の本拠地=「葦原中国(豊穣)」
           ⇕
  奴国王家の逃避地=「根の堅洲国(出雲)」
 
 ・ヤマト王家の支配する国=「出国」
           ⇕
  奴国王家の拠る地=「出国」
 
 ③「古事記」は稗田阿礼が「大和王朝」を神代から続く「万世一系」の系譜として創作したもの。
 
 ④その「万世一系」の建前(系譜)を基に「日本紀」は編年されているため、不都合な事実を隠すための工夫(編年設計図)が凝らされている。
 
 ⑤しかも、「日本紀」編者たちは、後世に史実を伝えるため「春秋の筆法」を用いて示唆を残している。
 
ここから、今回のテーマです。
<神功と武内宿祢は、「奴国系王族の血筋」>
  勉強会の資料を画像で紹介してその説明をしてみようかとおもってみたりしたのですが、それでも手ごわくて結局、ブログの過去記事を参照していただくこととして、手抜きですが結果のみ箇条書きで紹介します。
 
 ・神功は父方先祖の開化天皇の6世となっている(日本紀では5世・・・大宝律令の臣籍降下を意識してか?)が、その開化天皇の諡号(おくりな)には、「奴国系」を連想させる「大日本根子彦大日日」が含まれている。
 
 ・武内宿祢の先祖である孝元天皇の諡号も「大日本根子彦国牽」となっていて「奴国系」であることが示唆されている。
 
あぁ、疲れたアセアセ
 
後半の
②神功の新羅征伐の史実と実年代(神功皇太后摂政紀の設計図解析)
③応神と仁徳の謎
                は、また後日。。。。