ひでです。お早うございます。平城宮は4月29日に行ったお城です。平城京は城とは言えないと思うんですが、折角行ったんで城と判断しました。笑
場所:奈良県
城主:元明天皇
石高:
別称:
来歴:今の奈良県明日香村の最初の都を築いた天皇家ですが、持統天皇の御代に藤原京に遷都します。704年に帰国した遣唐使の情報をもとに、奈良県北部に唐の長安を模して710年に遷都したのが平城京です。
藤原京に遷都してから20年も経っていませんでした。遷都の理由ははっきりしませんが、山の端に位置する藤原京では、日本の国力を示す大きな建物を中心とした都を作るのが難しかったんではないかと思います。
(これが平城京の地図です。第1次と第2次とあるのは聖武天皇が平城京からの遷都以前が第1次、この時太極殿も移築されました。平城京に帰って再建されたのが第2次です)
遷都の中心を担ったのが藤原鎌足の息子の不比等ですが、不比等の没後は皇族の長屋王が担うようになり、それを良しとしない不比等の息子たちが長屋王に無実の罪を着せて自殺に追い込んだと言われています。
(⑥の推定宮内省から覗いてみましょう)
その後、しばらくは安定した政権でしたが、天然痘の流行や不比等の息子たちの死亡、政権を追われた不比等の孫による九州での反乱など政情不安が続くようになりました。
(それから第1次太極殿に向かいます)
この状況に、時の聖武天皇は恭仁の宮、難波の宮、紫香楽の宮に次々と遷都し、大仏を建立して民心を鎮めようとしましたが、貴族の反発の結果、都は再び平城京に戻されることになりました。
(立派な建物ですね)
有難い東大寺の大仏建立を急いだ聖武天皇は、とうとう娘の阿部の内親王(後の孝謙天皇)に譲位し大仏だけに心血を注ぎました。
(太極殿に入ってみましょう。)
政権に復帰した不比等の孫の藤原仲麻呂は太政大臣となり、孝謙天皇を退位させ、淳仁天皇を即位させるなど、政権を思うままにしていましたが、自分の病をいやした弓削道鏡を寵愛するようになった孝謙上皇と対立するようになり、最後には藤原仲麻呂は殺されてしまいました。
(小壁には四神が描かれていますけど、当時もあったのかな?)
(その他に高御座やシビ(建物の格式の高さを表現するとともに、雨水の侵入を防ぐものです)が置かれていました)
政権を奪った孝謙上皇は淳仁天皇を退位させ、自ら称徳天皇と名乗り法王となった弓削道鏡と共に政権を担うことになりました。
(建設当時の第1次太極殿は築地回廊に囲まれ、朝廷の儀式や政務の場、手前にはひれ伏す朝臣たちが見えるようです。笑)
称徳天皇が亡くなると道鏡も失脚し、称徳天皇が亡くなったことで聖武天皇の血筋は途絶え、次に天皇になったのは天智天皇の孫の光仁天皇でした。
(こう年表を見ると目まぐるしく遷都していたのが分かりますね)
長々とお話してきましたが、長屋王の変(長屋王が自殺)以降の50年余りは
・無実の長屋王を死に追いやった不比等の息子4人の相次ぐ死
・その後政権を担った橘諸兄が遣唐使の吉備真備らを重用したせいで起きた藤原広嗣の乱
・聖武天皇・良弁僧正による奈良の大仏の建立と目まぐるしい遷都
・藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱
・弓削道鏡が僧籍のまま太政大臣となり、宇佐神宮の神託があったとして天皇になろうとした。確認のため宇佐神宮に赴いた和気清麻呂の機転で弓削道鏡の悪事は阻まれた。
ですが、弓削道鏡を寵愛する称徳天皇の怒りを買い、「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と改名されて鹿児島県に配流になった。
・天皇が聖武天皇系(称徳天皇)から天智天皇系(光仁天皇)に変わる
など(一つ一つを深掘りすると面白いんですが)政争が渦巻く時代だったと言っても過言ではないと思います。
(平城京には隋・唐の窓口が大宰府の他に福井や石川の福浦にも食館があったようです。石川も時代の先端を行っていたんですね)
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