ひでです。お早うございます。鳥羽城は5月10日に行ったお城です。
場所:三重県
城主:橘氏→九鬼嘉隆→内藤氏→~稲垣氏
石高:5万6,000石(九鬼氏)
別称:二色城
来歴:鳥羽城は北畠氏の配下だった橘氏が築いた城ですが、同じ鳥羽で海賊の親玉として波切城で勢力を張っていたのが九鬼水軍でした。
(場所はミキモト真珠島の近くで、鳥羽水族館のすぐ隣です)
やがて、戦国大名として力をつける北畠氏の後ろ盾を受けた国衆の居城を襲われ、城を捨てて逃げました。そこで九鬼氏は水軍の将を売り物に織田信長に仕えることに成功します。
(海に特化した城だけに、今歩いている所は創建当時は海の側でした)
(こんな感じで上って行きました)
その後、信長が北畠具教を攻めた際には水軍を率い活躍し、信長の天下布武に貢献しました。その功で信長の助力を得、伊勢一国を平定することが出来ました。
(三の丸から上ります)
その九鬼水軍の戦でとくに有名なのが第二次木津川口の戦いです。
包囲されている石山本願寺が毛利元就に武器や食料の援助を求めました。これを受けて、毛利水軍連合(毛利水軍・小早川水軍・村上水軍)は800隻の大船団を率いて石山本願寺に補給をするんですが、対する信長軍は九鬼水軍を中心に300隻。これ見ても勝負あったですね。
毛利連合にはかの有名な海賊日本一の村上水軍も居て、得意の焙烙(火薬を詰めた爆弾)を投げ込み、火矢を使い九鬼船団を焼き払い、石山本願寺への補給に成功しました。まず、これが第一次木津川口の戦いです。
毛利水軍の強さを改めて知る事となった信長は、九鬼嘉隆に燃えない船の建造を命じました。命を受けた嘉隆は2年足らずで、鉄張りの大安宅船に大砲を積んだ鉄甲船を作ります。
それがこういうのだったと言われています。(もう少し上の方まで鉄で覆われていたような)まるで浮沈城ですね。5千人が乗れたとも言いますが、それはちょっと大袈裟ですね。
その巨大戦艦を以前苦杯をなめた木津川口にもっていき、大阪湾を封鎖しました。石山本願寺とすれば、唯一物資の補給路として残されていた大坂湾の海路を封鎖されてはたまりません。
(パンフレットを見ると昔の掘とかが書いてあります)
再び、毛利水軍に助けを求め、それに応じた毛利水軍連合との一大決戦が行われたのが第二次木津川口の戦いです。
(三の丸広場から家老屋敷跡に向かって上がります)
九鬼水軍は戦艦6隻、対する毛利連合水軍は600隻と言われています。木津川口に待ち受ける九鬼水軍、それに対する村上水軍を中心にした毛利連合水軍、決戦の火ぶたが切られました。
(階段を見ただけで、くるりと踵を返す奥様)
雲霞のように押し寄せる毛利水軍にたかられ、苦戦に陥ったかのように見える九鬼水軍ですが、それは織り込み済みの計略でした。
(家老屋敷跡です)
十分相手の船を引きつけておいて、船に積んでいる大砲・大鉄砲が火蓋を切りました。この攻撃に多くの小早(今でいう所の駆逐艦?)関船(これは巡洋艦)主体の毛利水軍は木っ端みじんに吹き飛びます。
(本丸に向かって歩きます)
それでも攻め寄せる毛利水軍は、得意の炮烙も火矢も鉄甲船には全く歯が立たず、ただ大砲の餌食になるだけでした。見たか毛利め!。笑
この海戦で本願寺の孤立と織田軍の優位は決定的になったといわれています。
(この先が本丸です)
本能寺の変後は秀吉に仕え、蒲生氏郷の与力として活動しますが、氏郷が会津に行った時には同行しませんでした。
(本丸に出ました)
朝鮮出兵の時には水軍の大将として活躍し、戦が終わると家督を子の九鬼守隆に譲って隠居しました。
(ここらあたりは天守台になります)
関ケ原の戦いでは、嘉隆は西軍に、守隆は東軍に与し、家名が存続するように図りました。結果、東軍が勝利するんですが、守隆は徳川家康に父の助命を嘆願し、守隆の功績の大きさが考慮され了承されました。
(本丸から見える鳥羽の島々です。黄色の矢印が指しているのが答志島です。)
守隆の急使がそれを嘉隆に伝えるべく答志島に駆け付けるんですが、急使がたどり着く前に嘉隆は自害して果てました。守隆とすれば無念だったでしょう。
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