ひでです。お早うございます。道の駅津かわげにいます。昔から「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と言われていました。外は雨が降っています。日中晴れると良いんですが。
昨日行ったのは、本居宣長の奥墓です。本居宣長は江戸末期の国文学者で古事記を研究した人です。きっと幕末の尊王攘夷にも関連があるのだろうし。まあ、それくらいの知識しかないんですが、行きました。
何故って?。以前奥様が食べたそうにしていたご飯屋さんが松坂にあったから。そこをお昼にすると、時間調整のために行く必要があったから。笑
駐車場に車を止めて少し上がると妙楽寺さんが有りました。それが場違いなほど立派なお寺です。常時人はいないようでした。
時間調整がとんだ山登りになるなんて。笑
きっと山に見晴らしの良い所から、こよなく愛した街を見下ろしている・・・だったら良いんですけど。
綺麗に整備された遊歩道を
「どこまで行くが」「知らん」
「ひでの行く観光ってこんなとこばかりや」
と奥様に言われますが、誰も好き好んで山奥に来たいわけではありません。来たところが偶然山奥の場合が多いんです。笑
やっと案内板があるようです。
この先に植松有信の歌碑があります。
もうひと頑張りですよ奥様
「宣長さん。なんでこんな山奥に墓を作るんや。お陰でひどい目に遭ったわ」と文句でも言っているのでしょうか?。笑
見晴らしも何も、山の中にひっそり溶け込んでいるお墓でした。
松坂の街に出て、
松坂城で100名城の印を貰い
民俗資料館で少しお勉強
昔は、近江商人・浪速商人・伊勢商人、三大商人の街と言われた伊勢の街、お陰参りの観光客と相まって、伊勢の街は栄えていたそうです。
小津安二郎も少年時代の10年間、伊勢で暮らしたそうです。
このビデオ、うちに有ります。東京へ出てきた笠智衆夫婦、東京に住む子供たちは、それぞれに忙しく親のことなんて構っていられません。邪魔者を追い出すように、戦死した次男の嫁の原節子に預けます。
小さなアパートに住む嫁は仕事を休んでまで笠智衆を歓待しました・・・親子って何でしょうね。いえいえ、私も現役の時ならその子供たちと同じだったでしょう。でも、今だったら・・・親孝行したいときには親は無し。とは、よく言ったものです。
そして国へ戻るんですが、ほどなくして妻は亡くなり、笠智衆だけが取り残される・・・自分の行く末を案じさせるような映画でした。
いや~それにしても笠智衆は良いですね~。どんな役をやらせても結局は笠智衆になってしまう。名優と言うか下手というか見る人それぞれだと思いますが、私は笠智衆が出演するだけでほっとします。
小津が東京から舞い戻ってきたわけはよく分かりませんでした。受付嬢に聞いても「父親の仕事の関係で」の一点張りで。
本居宣長記念館は
覗くだけ。笑
行くところ行くところに御食事券の店有り。今日はサガミさんです。
この間お昼を食べた時、数百m先にサガミさんがあって、奥様が「サガミで食べたいわ~」と言ってたんで。
私の半分で満腹になるくせにこんなに沢山食べれるの?
それから行ったのは
北海道を旅すると、そこここでお目にかかるたけちゃんの記念館です。
今までずっと「まつうら」では無く「まつら」と読むと思っていました、何故って松浦の家は肥前の松浦(まつら)党の出身だから。
受付嬢に聞いても「まつうら」って言いますよ。(それはわかっています。何故マツラがマツウラになったかと言うことを知りたいんです)と思いましたが・・・やめました。
北海道の調査で知られる武四郎ですが、全国を旅したようです。石川にも来ていました。2次元コードを読むと
これだけでした。笑
16歳から70歳まで旅をし、2万kmも歩いたそうです。地球半周ですね。
大雑把な年表です。
北海道にある武四郎の記念碑です。地元(アイヌ)の人たちから慕われていたのがよく分かりますね。
変えは旅の達人で
絵が凄く上手いんで、調査して記録する時に挿絵にも技術を発揮しました。
旅の資金は行ったところでハンコを作ってあげたり、販売したり、諸国の話とか勉強を教えたりとか、今でいうノマドですね。特定の場所に縛られずに、好きな場所で仕事をしていました。
そんな彼が長崎で住職をしていた時に、ロシア艦隊が頻々と蝦夷に現れ、このままでは蝦夷がロシアに占領されると危惧した武四郎は個人で蝦夷に旅立ちました。
帰ってから色々見聞きしたことを本に書き、その本が幕府の目に留まり、今度は幕府の役人として給金を貰い調査しました。
その時見たものは、藩の役人と商人がアイヌの人たちを奴隷同然で働かせていることでした。
明治になっても政府の元で調査に励みましたが
商人たちの横暴に憤慨した武四郎は政府に対して色々献策するんですが、一向に取り上げてもらえず、
最後には役人をやめ「馬角斎(ばかくさい)」と名乗り、菅原道真の跡をたどったり。また、歳を取ってからも大台ケ原や富士山に登るなど、老いても旅人心は衰えませんでした。
それでは武四郎の生家を見に行きましょう。中に入ろうとすると、表に「新宅」の表札が。「新宅が有るんだったら、本家が有りますね」と聞くと、驚いたように「よくご存じで、数軒先にありまして、そこが武四郎の本家です」と言うことなんで、先にその表札を見に行きましょう。
この前の道は旧の伊勢街道で
その時の趣を出すために屋号を掲げているんですって
ひでの家にも屋号があります。家の印の焼き印もありました。鍬、カマ、下駄の果てまで焼き印は押されてました。
ひでの実家が本家なんで、私はあぢち(新宅)です。集落のなかにもあぢちの人は何人もいましたが新宅と言う屋号ではありませんでした。
有りました。武四郎の本家です。表札には松浦となっていました。
生家の受付の人に「本家と新宅って屋号を付けるなんて、ほっほどのお金持ちではなかったですか?」と聞くと「よくおわかりですね。この家は村のまとめ役、庄屋さんでした」
「細かいことはもっと詳しい人が居るんで、その人に聞いてください」と言うことでした。
昔は土間でしたが、改修するときのコンクリートを敷いたそうです。「でも、ほとんど当時のままですよ」と案内人は言っていました。
蔵が2つもあったそうです。お金持ちですね。
小さい頃から寺子屋・藩校に通わせてもらい、長じては江戸に遊学させてもらっていました。「働かざるもの食うべからず」と育てられたひでとは大違いです。笑
離れの庭に灯篭が
武四郎が判官朝臣に叙任した記念に建てたそうです。あの、源義経でさえ従五位の下でしたから、その上の従五位を拝領するなんて政府からの期待度が分かります。
そんな名誉も「馬角斎」と言って放り投げてしまったんです。あ~勿体ない。
金田一京助も来てました。
「所で、何故マツラと呼ばないんですか?」と案内人に聞くと「よくご存じで、武四郎の祖先は松浦党から来ていまして、南北朝の頃、佐賀からここの殿様に呼ばれて河川改修など水に関わる工事をしたとか」「ここの殿様と言うと、南朝の忠臣北畠親房でしょうか。松浦党は当初南朝についていたのでそういう縁があったんでしょうか」
「そういう事で、工事後ここに居ついて、いつの間にかマツラがマツウラになったのではないかと推察されます」ということでした。
結局、長い時間松浦武四郎に構っていたんで、次に行こうと思っていたルーブル彫刻博物館もサモトラケのニケを見ただけで素通りです。1500円の入場料を払うには少しの見学時間では勿体ない。笑
湯の瀬でお風呂を頂き
道の駅津かわげに着いたには
5時過ぎていました。ルーブル彫刻博物館を見なく正解です。
昨日の牡蠣をレンチンです。結構大きかったです。
よかったらポチッとお願いします。
↓ ↓ ↓


































































