ひでです。お早うございます。大和郡山城は4月17日に行ったお城です。
場所:奈良県
城主:筒井順慶→松永久秀→豊臣秀長→増田長盛→水野氏→→→柳沢吉里
石高:100万石
別称:なし
来歴:奈良盆地を統一したのは筒井順慶です。分裂抗争している大和の国でわずか2歳で家督を継いだ順慶は、叔父を後見として何とか勢力を保っていましたが、松永久秀に居城を奪われ一族の住む城に逃れますが、徐々に松永軍に対する反撃を開始します。
堺で三好義継と久秀との間で戦闘が起こったことを好機として筒井城奪取を計ります。久秀は戦いのため筒井城の救援には向かえず、何とか筒井城を奪還しました。
後に、三好三人衆と結んだ久秀に攻められますが、辛くもこれを防ぎ、台頭してきた信長に臣従し、立場を強化していきました。
後になると、久秀も信長に臣従して大和は両家で鼎立しますが、後に信長に背いた久秀が滅ぶと、大和一国を任され郡山城を築き入城しました。
筒井家が伊賀上野に転封になって大和に入ったのは豊臣秀長でした。秀吉の弟として各所で活躍した彼は、紀伊国・河内国・大和国を領地として、合計100万石で郡山城に入城します。
(駐車場が分からず、奥さまを車に残し一人で行きます)
それからも戦いに明け暮れ、秀長は病を得て亡くなり、家督は養子の秀保が継ぎますが、ほどなくして急死してしまいます。秀長家は家督を継ぐ者がなく断絶してしまいますが、豊臣政権の五奉行の一人・増田長盛が20万石で入城しました。
(ここも続100名城なんですね。今更スタンプを集める気になりません)
関ヶ原の戦いで西軍に組した長盛は改易となり、その後主君は目まぐるしく変わり、最後は柳沢家が15万石で入城し明治まで治めることになります。
(入って左側に神社。右へ向かいます)
柳沢と言うと吉保が有名ですが、彼は第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、旗本から側用人それから大名まで出世し、最終的にはには大老格として幕政を主導しました。
綱吉の後継に甲府宰相の綱豊が決まると、江戸城に移った綱豊の後任として、甲斐国に所領を与えられ15万1200石の大名となりました。
徳川綱吉が亡くなると、吉保は第一線から身を引き、息子の吉里に家督を譲りました。
(天守台がありました。上がらなかったのが悔やまれます)
大和郡山城に転封となった吉里は甲府の領民から慕われ、旧領地から家臣も合わせ約5000人が移住したと言われています。
(極楽橋を渡ります)
大和郡山に移ってからも善政を敷き、産業振興にも文化振興にも尽力しました。お城にも沢山柳沢氏のことが書かれていて、名君を偲ばせます。
(天守を囲む掘です)
先に進むと
(あら。表に出ました。搦手の竹林橋から来たようです。)
左が追手向櫓です。
大手門にあたる追手門の虎口です。
中に入ると左に追手向櫓です。
追手門から極楽橋へ向かいますが、堀の手前から見る天守台も格好いいですね。
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