ひでです。お早うございます。玄蕃尾城は4月12日に行ったお城です。

場所:滋賀県

城主:柴田氏

石高:

別称:内中尾山城

来歴:この城跡は天下分け目の賤ケ岳の戦いで柴田勝家の本陣となった城です。

ことの発端は、本能寺の変で信長が亡くなり、織田家の跡目を決める清須会議でした。そこで主君の仇を売って存在感を高めた秀吉は、信忠の嫡男三法師(信長の長男の長男)を担ぎ出し、正当性を主張しました。当の三法師は3歳でしたが、多数派工作が成功し、三法師が跡目を継ぎ、当面は秀吉が後見することとなりました。

その決定に不満を顕わにしたのが信長の次男・3男の信勝・信孝と、家老の勝家と滝川一益です。

勝家との戦いが避けられないと見た秀吉は、冬の間に長浜城にいる勝家の養子の勝豊を攻めました。当時、勝家に実子ができ養子縁組は解消されていた勝豊は、冬の越前からの後詰めは期待できないということで、戦わずして降伏してしまいました。

勝家の城は越前なんで冬は動きが取れません。この隙に秀吉は、信孝の守る岐阜城と一益の守る伊勢長島を攻めましたが、さすがは歴戦の勇士滝川一益です。そうやすやすと降伏することはありませんでした。

味方が各個撃破されていく中で、勝家はじっとしていられません。北陸方面で苦楽を共にし、自分を「親父殿」と呼び慕う前田利家と、金森長近、不破勝光、親族の鬼玄蕃で知られる佐久間盛政ら、北陸方面軍を率い越前を後にし長浜に向け軍を進め、賤ケ岳の柳瀬に着陣しました。

伊勢から長浜に戻った秀吉は体制を整え木之本に着陣しました。この時、勝家の出陣を知った信勝が、岐阜城で秀吉に反旗を翻しました。

一度許してやったのにと怒った秀吉は岐阜城に向け軍をすすめます。これを好機と、勝家陣営も動き出します。秀吉が岐阜まで行っている間に、佐久間盛政ができるだけ多くの敵陣を落としておこうという作戦でした。なにせ、秀吉軍は勝家軍の倍の兵力だったからです。

これを聞いた秀吉軍は大返しを始めます。大返しと言えば中国大返しが有名ですが、美濃大返しも大変有名です。秀吉は三成に命じ、木之本に続く街道の村々に炊き出しとたいまつを用意させました。これも、長浜が秀吉の旧領だったからなんでしょうね。

秀吉は岐阜・木之本間を5時間余りで駆けたということです。武具・武器は持たずに丸裸で駆けたという話ですが、私だったら無理みたい。

この時に大活躍をしたのが、「賤ケ岳の七本槍」です。彼らの働きもあったんですが、勝敗の趨勢を握ったのが前田利家なんです。彼は、戦わず戦線離脱してしまいました。

秀吉の朋輩として仲の良かった利家なんですが、柴田・豊臣の両家に挟まれて苦悩したと思いますが、最後は家名存続ンのため、勝ち馬に乗ったということでしょう。

これを見た勝家軍の金森隊・不破隊も退却をはじめ、勝家軍は総崩れになり北の庄城を目指し退却を始めたのでした。

賤ケ岳の戦いの命運を握った利家ですが、こうも言われています。秀吉は親友だが、敵対すれば絶対に許してくれないが、器の大きな勝家ならば、例え裏切っても事情を話せば分かってくれるといった甘えがあったんじゃないかと。一応私も加賀衆なんで利家の味方をしておきます。

賤ケ岳隧道の入り口に

案内板があり

左に折れると丁寧な看板が。よく最初だけ案内してあとはぶっぱなしということがありますが、ここは最後まで丁寧です。

交差できない山道を上っていくんですが、キャブコンだと無理っぽい。

「こんな所へ来る物好きわ居らんやろう」という奥様の期待を裏切るように、駐車場には4台の先客がいました。

4~5台止めれる駐車場とトイレと続100名城のスタンプがあります。

パンフレットもありますよ。

駐車場からお城まで約20分。駐車場の前の道を登ります。

掘きりか旧道かわからない道を上がっていきます。

旧道だったのね。

峠から左に折れ山を上がります。

急な登りを息を切らして上ります。

やっと尾根のように平らな所に出ました。

手前の郭①に来ました。ここから回ります。

大手門の虎口郭です。

そこかしこに堀切があります。

広い城跡でした。

こんな堀切を見ながら

戦国時代に思いをはせ

うろうろ歩き回ります。笑

やっと本丸に出ました。

本当にきれいに整備されて本当に楽しませてもらいました。有難うございます。

 

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