ひでです。お早うございます。足利館は1月31日に行ったお城です。これでも、100名城なんです。

場所:栃木県

城主:足利氏

石高:

別称:鑁阿寺(ばんなじ)

来歴:平安時代に活躍した八幡太郎義家から関東の開拓地を相続した四男義国が、その開拓地を守るために租税免除と土地支配権の確保狙って京のお寺に寄進し、自分は荘官として実質的な現地管理者としての地位を得ました。

この荘園を足利の荘と言い、義家が管理者として足利の荘に築いた屋敷が足利氏館なんです。その義国の次男の子が鎌倉幕府の設立に尽力し、後年子孫が室町幕府を設立します。

鎌倉幕府の重鎮となった足利氏は敷地内に鑁阿寺という氏寺を建立します。自分たちは鎌倉・京などで活躍していく中で、足利氏館は鑁阿寺が残るだけになっていきました。

源頼朝との関係は、お互いに清和天皇の皇子の貞純親王を祖としている河内源氏の棟梁の八幡太郎義家の子孫ですが、義家の後継者となった義親の後継者が為義で、その孫が頼朝なんです。なので、4男の子孫(足利氏)から見れば頼朝は河内源氏の棟梁なんです。

それと、義国の長男は義重と言って、義国とともに新田の荘を開発して、子孫は新田氏を名乗るんですが、頼朝が挙兵したとき足利氏はいち早く挙兵に協力したんですが、新田氏の方は義家からの血は自分のほうが濃いとか、色々な問題から随身が遅れ、それが頼朝の不興を買うなど、幕府の中の位置は足利氏と雲泥の差がついてしまい、これが室町幕府の成立において、新田氏は南朝方の主力となり足利氏を苦しめたのです。

しかし、新田氏は不運なことばかりではありません、松平(徳川)家康が「祖先は新田氏から出た清和源氏だ」と学歴詐称にも似たことで、徳川家に箔と叙任のための道具に使ったことにより新田氏も溜飲を下したことだったでしょう。

因みに、室町幕府が滅び北条氏が足利を占拠しますが、徳川幕府の代になり足利は幕府の直轄地となり、後に本庄氏が足利藩を立てます。転封のため藩は一時消滅しますが、戸田氏が大名に取り立てられ、足利藩を再興し明治まで続きました。

(山門から入りました。)

紅白の梅が出迎えてくれました。

(経堂です。)

(多宝塔です)

気が付けば本堂を写さず、先にある建物の写真を撮っていました。笑

 

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