ひでです。お早うございます。鹿児島城は5月9日に行ったお城です。

場所:鹿児島県

城主:島津家久→島津家

石高:72万石

別称:鶴丸城

来歴:そもそも島津氏は、摂関家の一つである近衛家の所領である薩摩・大隅・日向にまたがる広大な島津荘に由来しています。島津荘は、平安末期頃大宰府の役人であった平季基が日向国島津院(現宮崎県都城市)を中心とする荒野を開発し,摂関家の藤原頼通に寄進したのが始まりでした。

平家と源氏が争っていたころ、島津荘の下司職に補任された惟宗(これむね)忠久が,荘園名をもって島津忠久と称したことが島津氏のはじまりです。

その後,島津氏は薩摩・大隅両国の守護職に,さらに日向国の守護にも任じられ,薩・隅・日の守護と周辺に鳴り響きました。
島津氏は3代まで鎌倉で生活して、鎌倉幕府との親密な関係を持っていましたが、蒙古襲来を契機に幕府から九州における異国警固番役を命じられた3代久経が、九州へ下向してから九州に根を張ることになります。

一時は九州全土を治めるくらいの勢いでしたが、全国統一を目指す秀吉の前に力尽きました。

初めの頃は清水城を居城にしていましたが、手狭になり内城(志布志城の内城では有りません)を築き暮らしていました。しかし、関ケ原の戦いで敗れ、全領安堵は認められましたが、今後の徳川家との対決も予想し、新城築いたのが鶴丸(鹿児島)城・・・だと思います。笑

城を築いたのは忠恒ですが、改名して家久と名乗りました。しかし、おじさんにも同じ家久がいて忠恒の名で呼ばれることもありました。

幕府を憚って天守閣のようなものは立てませんでしたが、城山が実質的に詰めの城で、天守閣の代わりをしていました。山の上を上山城と呼び、下の御館を合わせ鹿児島城と呼んだと言います。

再建された御楼門をくぐれば石垣がありますが、そこらじゅう穴の跡です。

日本最後の内戦と言われる西南戦争の跡です。

幕府からは攻められませんでしたが、薩英戦争とか西南戦争とかで被害を受けた鹿児島です。第2次世界大戦の空襲で町は跡形もなく灰燼に帰したと言われています。

今までの色々な資料は黎明館で仕入れました。笑

 

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