ひでです。お早うございます。高城跡は5月4日に行ったお城です。
場所:宮崎県
城主:島津(新納)氏→財部土持氏→伊東氏→島津(山田有信)氏→秋月種実
石高:
別称:なし
来歴:平家の滅亡する際に公家の近衛家領島津荘の管理を任されますが、それから島津氏が歴史の表舞台に立つことになります。
鎌倉幕府成立の後、源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国+αの4国の守護にも任じられ、鎌倉幕府の有力御家人として異例の守護職4つに任じられました。そうなんです。もともと日向の国は島津なんです。
時は移り、室町幕府の成立したころは島津氏は足利尊氏に与していて、新納氏を名乗った一族が高城を築きました。その後、南北朝時代には国衆の財部土持氏が奪って入城しましたが、やがて財部土持氏は日向守護の伊東氏と争って破れ、伊東氏が高城を治めることとなりました。
戦国時代になると、伊東氏は薩摩の島津氏に押され始め、敗れた伊東氏は豊後の大友宗麟を頼って落ちていき、後には当主の義久の家老の山田有信(信長の野望で知力が高い武将です)が城主として入りました。
この高城が有名になるのはここからです。伊東氏を援助して4万人以上の勢力で、日向の国に侵攻してきた大友宗麟は高城を包囲しますが、山田有信の寡兵を使った上手い籠城戦を破れずにいました。
籠城している間に、島津義久は3万の軍勢を率い、後詰めに現れました。島津軍現れるの報に高城側は力を得ますが、大友軍は挟み撃ちにされては大変と、後退して体勢を立て直そうとします。
好機と見た高城軍城を討って出て、渡河中の大友軍に襲い掛かり、本軍と合わせ乱戦になり、大友軍は総崩れになりました。
戦いは常に追われる側より追う側が圧倒的に有利です。大友軍を攻め立てた島津軍は、そこから30kmほど先の耳川(右上)まで追撃し、大友軍を完膚なきまで叩きました。
この高城から耳川までの間で繰り広げられた戦いは耳川の戦いと呼ばれています。
大友氏はそれから衰退の一途をたどり、最終的には豊臣秀吉に島津討伐のための九州攻めを願い出ることになります。知らんけど。笑
車で上の方の駐車場まで行けます。
下の駐車場に車を止め、空堀を見ながら本丸まで歩きます。
ここの空堀は見ごたえがありますよ~。
本丸跡には櫓を模した時計台がありました。
北の切原川を遠望します。昔、沢山の血が流れ、沢山の御霊が眠っているんだろうな~。
二の丸には新納観音がありました。耳川の合戦の高城戦で亡くなった方々の供養塔でした。南無阿弥陀仏。
その後、高城には秀吉に娘を側室に出して命拾いした秋月氏が入り、そのまま明治迄存続しました。綺麗な娘を持つと国一つ貰えます。笑
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