ひでです。お早うございます。大内氏館は4月23日に行った館跡です。

場所:山口県

城主:大内氏

石高:9か国の太守

別称:なし

来歴:大内氏は朝鮮百済の王族の末裔と言われ、古くから防府を拠点にしていましたが、南北朝時代に山口に拠点を移したようです。

この太内館は室町時代に広く西国を領した守護大名大内氏の住居であり拠点でした。

朝鮮や中国との貿易で富を築き、先進的な大陸の文化を取り入れ・・・ザビエルまでもが訪れたようです。

この寺は、32代大内義隆が重臣陶晴賢に攻められ自害した後、厳島の戦いで陶氏を破り、大友氏から養子に来ていた傀儡の君主を滅ぼした毛利氏が、大友氏の菩提をともらうために館跡に龍福寺を建立しました。

大内義隆主従の供養塔です。

大内義隆の辞世の句が刻まれています。「討つ人も 討たれる人も 諸共に 如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)」と書いてあります。

「私を討とうとする者も討たれる私も、共に、露や雷のように一生は短く儚いものだ」と言う意味のようです。一生は短くはかないものですね。やりたいことはすぐやろう~。笑

資料館が併設されています。

大内義隆公が出迎えてくれます。

室町幕府の終わりごろ京では応仁の乱が起こっていて、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の大内文化が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。

義隆は、陶氏を大将に尼子氏を攻めますが、総大将の養子の大内晴持を失うなど大内軍は大敗します。その責めを陶氏にかぶせ自分は公家のような生活をして遊興にふけるようになりました。

不満に思った陶氏が、大内氏と毛利氏の同盟を強化するためと偽って、元就が息子たちを連れて山口を訪れて義隆に謁見します。(それがこの場面です)長期の滞在の間に晴賢と吉川元春は義兄弟の契りを結んだと言う事です。

何も知らずに、盃を受ける義隆です。

その頃には武闘派の晴賢と文知派の相良武任らの間では険悪関係は深刻度を増していて、文知派を重用していた義隆の対して不満が渦巻いていたと言われています。

神社の例祭での参詣を義隆は急遽欠席ます。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂を義隆側が警戒したものと言われています。義隆は隆房を呼び出して問いただしますが、隆房は無実を主張しました。

これで、2人の中は決定的なものとなりました。

太内義隆を見限った晴賢は、大友宗麟の異母弟で、大内義隆の姉の子(義隆の甥)である大友晴英を大内新当主として擁立するのに協力を願う密使を、大友氏に送り宗麟の許諾を得ます。

(今ではこの区画が大内氏館として残っています)

晴賢は内藤氏らと共に挙兵しました。呼応して出陣した毛利軍も山陽道の要衝を押さえ、多くの大内氏の家臣が陶方に付きました。

その時も義隆は酒宴を張っていて、陶氏謀反の一報を聞いても「多くの家臣は自分に着くので問題はない」と思っていたようです。

(お寺の裏には館跡の庭園や遺構があります)

義隆は家中の動向が見抜けず、中央指向の公卿的生活を送るため、国情を無視して税を重くするなど、領民にも見放され、わずかな供回りと共に自害しました。南無阿弥陀仏

(高嶺城は最後の城主大友晴英が対毛利氏のための詰めの城として作られました)

毛利氏を従え大内の残党を掃討し、新たな当主として家督として迎えた晴英を、大内義長と改名させると、晴賢は義長を傀儡の当主として大内家の実権を掌握しました。

(かまどの跡とかの遺構とか色々ありましたが、これくらいにしておきました。笑)

今回の政変の間隙を突いて尼子氏は、これまで大内の支配下だった備後に出陣しますが、毛利元就が安芸国人衆を率いて対抗し、新生大内氏の名代として戦い、尼子軍を撤退に追い込みます。

この戦いを見た、備後の国衆も元就に服属し、安芸・備後の有力国人を従えた毛利は、大内氏(陶氏)に対抗できるだけの勢力を持つことになり、厳島の戦いへと進んでいきます。

 

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