ひでです。お早うございます。順番は前後しましたが、備中高松城は4月18日に行ったお城です。
場所:岡山県
城主:三村氏→清水宗治→宇喜多氏→花房氏(宇喜多氏から徳川氏の旗本)
石高:
別称:なし
来歴:備中高松城は近くを流れる足守川の堤防を天然の曲輪として、沼地を堀とした天然の要害として
備中松山城主三村元親の配下によって築かれましたが、歴史の表舞台の出たのは清水宗治が城主の時です。
本当は高松城といいますが、四国の高松城と区別するために備中高松城と言っています。
全国統一を目指す織田信長の命で中国地方の毛利氏を攻略していた豊臣秀吉でしたが、まず手始めに宇喜多直家の調略に成功します。戦わずして備前の国を手中に収めると、中国地方を領する毛利氏との最前線は備中高松城になりました。
毛利氏は備前の国との境に7つの城を築き国境を固めます。そこで秀吉は一つ一つ潰していくわけですが、備中高松城は湿地帯と言う事で、力攻めをすると被害は相当に上ることから、先ず内応工作をします。
しかし、忠誠心厚く名将の誉れ高い宗治は公然と拒否します。そこで、得意の兵糧攻めをすることとし、湿地帯を逆手に取り水攻めを敢行しました。
(白いのがせき止められた足守川です)
丁度、梅雨時と言う事もあり、水はみるみる高松城を満たしていきました。
高松城を救援にするためにすぐ近くまで来ていた毛利軍も指をくわえて高松城が水浸しになるのを見ているほかありませんでした。
水攻めと同時に講和交渉をしていた秀吉に6月3日夜に本能寺の変の第一報が届きます。秀吉は毛利方に情報が届く前に何とか講和を結ばなければいけないと考え、条件を大幅に緩め宗治以下主だった将の切腹だけで城兵の命は助けるという言う条件を出し、毛利方が逡巡する間に、当の宗治は条件を飲みました。
正午過ぎ、秀吉の陣から見えるところまで小舟で漕ぎ出した宗治は
「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」と言う辞世の句を残して切腹して果てました。
(宗治の首塚です)
毛利方が信長の死を知ったのはその直後だと言われています。
(復元された堀です)
毛利方にも秀吉を攻めるかどうか意見が対立したと言う事ですが、結局毛利勢は退却していき
それを見届けた秀吉は、明智光秀を討つべく中国大返しをするわけですが
危機一髪と言う所でした。それから毛利は関ケ原迄豊臣の臣下として全うしますが
明治維新においては討幕の立役者として関ケ原の仇を晴らすのでした。目出度し目出度し。
宗治蓮は400年の長き星霜を備中高松城跡と時代を共に見つめていたのでしょうね。
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