ひでです。お早うございます。佐和山城は4月13日に行ったお城です。

関ヶ原の戦いで石田三成を破った東軍の井伊直政が故郷の井伊谷にあった龍潭寺を佐和山の麓にも作りました。

その境内を通って佐和山城へ行きます。

場所:滋賀県

城主:佐保氏(佐々木氏)→浅井氏→石田氏→井伊氏

石高:19万4000石→18万石(彦根藩当初)

別称:佐保城

来歴:「治部少輔に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われた天下の名城です。中仙道と北国街道が交差し、東海道にも近いという交通の要衝として大切な城であったため城主は目まぐるしく交代しました。

最初は近江守護の佐々木氏(近江源氏で六角氏の祖先)の一族の佐保氏が城を築きましたが、戦国時代には六角氏が治め、六角氏が浅井長政に敗れたことで六角氏は弱体化し、浅井氏の城として名将磯野員昌が在城していました。

織田信長の浅井攻めでは、秀吉が「員昌に謀反の疑いあり」との偽情報を流し、それを信じた浅井氏から兵糧や兵士の増援が無くなり、員昌はそれでも孤軍奮闘8ヶ月に及びましたが降伏し、その後信長は丹羽長秀に守らせました。

その後、秀吉の時代になり堀秀政・堀尾茂吉、そして最後は五奉行の一人の忠臣石田三成の城となり、近代的な城郭に作り上げました。今迄の土塁の砦に毛の生えた城から天守閣をもった立派な城に作り替えたんですから、見た人は「過ぎたるもの」に写ったんでしょうね。

参道の三成像に挨拶して、さあ、頂上を目指して上りましょう。

そうそう、石田三成が旗印に用いたこの印。「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)と読み、その意味は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」というもの。ラグビーの合言葉“ワンフォアオール、オールフォアワン”(一人はみんなのために、みんな一人のために)にも通じるものがありますね。

三成と言えば、冷たくて弱いもいじめで秀吉にへつらうものと後世の人が作った像ですが、勝てば官軍、負けた人は良く言われませんね。三成が理想としたのは、そんなチームワークを大切にした世の中だったのでしょうか?

ひでも今日ばかりは履き替えました。

山門をくぐって

境内を見ながら進みます。

お寺さんですから周りはお墓です。

境内を抜け山道にさしかかります。

今どこに居るのか分かりませんが、本丸の裏側に西の丸が有りますので見えませんね。

五奉行の一人で多忙を極めた三成に変わり、実際に城を任されていたのは父や兄の正澄だったようです。

サルの声とか雉の声が聞こえました。

尾根へ出ました。案内板もあって迷う事は有りません。

煙硝櫓跡に到着です。ここは西の丸とも言われるところで、大きな窪みも有りました。ここに蔵が建っていたようです。

吠え声はこのサルだったんでしょうか?サルが数匹渡って行きます。注意しないとが有りそうです。

三成が秀吉と出会ったのは、秀吉が遠駆けの途中で立ち寄ったお寺での出来事だと言われています。のどが渇きお茶を所望した秀吉に、対応した小坊主は最初はなみなみとぬるいお茶を、次は茶碗半分ほどのやや熱いお茶を、三杯目には小さい茶碗に熱い茶を持ってきました。

飲む相手を思いやったおもてなしをした小坊主の佐吉が後の三成でした。佐吉は秀吉に気に入られて長浜城に連れ帰られ、秀吉のもとで武将としての人生を歩み始めました。

というお話が有名ですが、三成は長浜に住む土豪の一族で、寺にに本当にいたのか?居たとすれば行儀見習いか何かでしょうか?

佐吉は秀吉の小姓としてめきめき頭角を現しますが、利発なだけあって清正とか正則と言った腕白が取り柄の小僧を冷ややかな目で見ていたのかもしれません。それが最終的には大きな命取りになるんですが、そこから三成は小利口で冷たいといったイメージが出来上がったのかもしれません。

三成が大きく出世したのは、羽柴秀吉と柴田勝家の間で天下取りの後継争いが起こった時だと言われています。この時「賤ヶ岳の戦い」が起こり、三成は情報の収集と分析にあたりました。三成は敵方のことや地形、気候などあらゆる情報を集め、大将である秀吉に伝え、それを元に戦略が練られ、秀吉軍は見事な勝利を収めました。

最初に「治部少輔に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」言いましたが、では、島左近とは何者でしょう。筒井氏に仕えていた左近は、当主の順慶が亡くなると後を継いだ定次が酒色に溺れ、政治を顧みないため見限ったと言われています。その頃には名将として名が通っていました。

三成は三顧の礼を尽くし、左近を雇い入れる事に成功しました。当時4万石の石高しかない三成でしたが半分の2万石の石高で雇い入れました。さしずめ賢人は求めにくく、自分の石高は努力次第でもっと多くすることが出来ると言った自信でしょうか。

秀吉の死後、嫡男の豊臣秀頼が家督を継ぎます。 しかし朝鮮半島の戦いを巡って、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が対立を深めていました。

(向こうに見えるのが琵琶湖です)

仲裁役の前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きました。

(龍潭寺から1km。やっと頂上に出ました。)

宿敵家康の仲裁で一応和議が成立し(この時、三成が家康の屋敷に駆け込んだ話は有名ですが、その話は後付けだと思うんですが)、三成は責任を取って佐和山に退きました。

家康は会津を領していた上杉征伐ために大坂を発つと、入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の要請を受けた毛利輝元が大坂城に入城しました。

家康は政権を取ろうと有力大名と結婚話を進めるなど、禁を破った我儘な振る舞いに我慢できなくなった三奉行が家康の罪状13か条を書き、弾劾状を諸大名に送りました。ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られました。

当初は西軍有利で進んでいた戦いですが、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなりました。そうでなければ、明治の初期に陸軍大学校の教官に招かれて来日したドイツの軍人メッケル少佐は、関ヶ原での両軍の布陣を見ると、「西軍の勝ち」と即座に答えたそうです。

でも、西軍を敗北に追い込んだ本当に悪い奴は誰なんでしょうか?。毛利広家ではないでしょうか?西軍の総大将の毛利輝元の一族でありながら「もし西軍が負けたらどうなるんだろう。他家でも家名存続のために両軍に軍を送っているから、自分だけでも西軍に付こう」と考えた(?)広家は、親しかった東軍の武将、黒田長政を通じて家康に内応して、それと引き換えに「毛利家の存続」を家康に約束させていました。

南宮山の麓で、家康の背後にいるにもかかわらず、3万人とも言われる毛利の軍勢は広家軍がブロックしているせいで家康の背後を突けません。ご丁寧に大坂城に居る輝元に「大将が出るに及ばず」と連絡し、大将が出て来ないという異常な状態をつくり西軍の士気を下げました。

こうなれば、松尾山の秀秋にしても「もしかしたら毛利は裏切った?」という疑念が起こり、秀秋が東軍に付くと、松尾山の麓に居た脇坂などの大名が裏切った(裏切らなければ1万6千とも言われる小早川軍に踏みつぶされます)んだと思います。

大将として参加した毛利家は、関ヶ原の敗戦後は120万石余りから37万石という大幅な減封処分を受けました。大将ですから取り潰されてもしょうがない所を、広家に免じての温情だったと思います。

でも、毛利家ではこの屈辱を代々伝えて決して忘れず、その執念が250年の時を経て、倒幕の中心となった原因ではないでしょうか?もしそうなら広家のせいで逆恨みと言うものです。

*今迄に書いたものは全てひでの妄想なので事実かどうかは分かりません。笑

三成を慕う地元民の影響があったのか、関ケ原の戦いの後に入城した井伊氏は、しばらくしたのち麓に彦根城を築城し、佐和山城を解体するだけでなく徹底的に破却し、今では「過ぎたる」と云われた佐和山城の面影も有りませんでした。)

という訳で、三成・左近・大谷刑部らの決死の戦いもむなしく、西軍敗れてしまいました。

関ヶ原の戦いのあと、逃げて再起を図りますが捕まってしまった三成は、敗軍の将として処刑されることになりました。その処刑の直前、喉の渇いた三成は警護の人間に水を求めます。しかし水はもらえず、渡されたのは近くの民家にあった干し柿でした。

すると三成は「干し柿は体に悪いからいらない」と断りました。「これから死ぬというのに今更体の事を気にして何になる」と警護の者達は笑いましたが、三成は「大志を持つものは最期のときまで命を惜しむものだ」と相手にしなかったといいます。

最後の最後まで家康憎しの姿勢を崩さず、秀頼の今後を考えた三成の心境は如何ばかりであったでしょうか。

(山の麓に屋敷の跡があるというので探しました。この竹林の所にあった様です。)

帰りに踏切の所に公園があり、天守の模型が作ってありました。これを見ると五層の天守です。流石「過ぎたもの」と云われるだけありますね。

あ!そうそう。三成が決して人気が無かった分けでは有りませんでした。融通は利かなかったかもしれませんが、誰にでも分け隔てなく平等公平に接する姿は、敗れても三成の子供が誰一人として殺されなかったことでお分かりいただけると思います。

ご清聴ありがとうございました。

 

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