ひでです。お早うございます。今は道の駅浅井三姉妹の郷で仮眠しました。久しぶりの旅なんで上手くペースがつかめるか心配でしたが、そこは体が覚えてくれていたようです。笑
タイトルの「春旅」ですが、以前は時間も限られた中での旅でしたから、○○旅と○○に地名を入れた旅でしたが、今では風の向くまま気の向くままの風来坊なんで、目的ではなく季節を頭に付けております。こんな所にも現役のころとの違いが出るんですね~。笑
さて、10時過ぎに家を出まして、お昼は福井に居りましたので、昼食はいつものお寿司屋さんへと言っても敦賀ではなく福井ですが
着いてみたら、アピタの中でした
初を告げるサクラエビを頂いたり
その他諸々を頂きまして
最期はウニを。あまりに美味しそうでしたので写真を撮り忘れまして。それにしてもお高いですよね~ウニ。お金を払って食べれる代物ではないんですが、いつも言うようにポイントですから食べれるんです。
やって来たのは、一乗谷朝倉遺跡です。たびいくひとさんの来た頃は先始めていた桜も、散り始め、葉桜になっています。「秋来ぬと 目にはさやか見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」これは百人一首の中の藤原敏行朝臣の句ですが、さしずめ「時の流れは目には見えないが自然の移ろいに感じることが出来る」といった所でしょうか?知らんけど。笑
ここには今までも来たことがあるんで
何故寄ったかと言うと百名城のスタンプを押すためです。何処にお城があるの?って、あの山の上。笑
おそこに詰めのお城が有りましたが、織田軍の猛攻の前に焼け落ちました・・・って「どうする家康」で放送するはずです(私は再放送を見てるんで)。
ここ朝倉遺跡は、朝倉家5代の栄華をとどめています。
川を挟んで向こう側に家臣の屋敷などの街が復元されており、こちらには朝倉氏のお屋敷跡が復元されています。
戦国時代には室町幕府の足利義昭が朝倉氏を頼って、今日と奪還のために何度も上洛戦を求めに来ていました。
そこで起っていれば今頃は信長の出る幕はなかったのかな?と思う所ですが、統率力がいまいちだったようで、何だかだと言い訳している間に、義昭は信長側に付いてしまい、結局信長に滅ぼされてしまいます。
朝倉氏は若狭武田家の出だとか。名家の出で、越前守護で、管領代として細川氏に次ぐ名門だった朝倉氏。名家の息子はプライドばかり高くて・・・
信長の野望では義景より祖父の朝倉宗滴の武力・知力が高いですね。
昔は有りませんでしたが、礎石を上から見学します。(上の図の右下に居ます)
ここに足利義昭も訪れ、上洛を催促していたんですね~
武家庭園跡です
ごつごつした岩が力強い庭園です。
その先にあった中の御殿です。女房達が暮らす大奥的な所です。
朝倉氏の遺構を出て、車で一乗谷の奥へ向かえば一乗滝が有ります。
ここは、佐々木小次郎が秘剣燕返しをあみだした所だと言われています。
この滝の下で燕返しを編み出し、巌流を名乗り豊前小倉藩の剣術指南となった小次郎でしたが
舟島(巌流島のいわれは佐々木小次郎から)での戦いで宮本武蔵に敗れた(2021年に舟島へ行き小次郎と戦いました。笑)小次郎ですが(この時は武蔵の辛勝でしたが)
一説には、「一対一の約束を「宮本武蔵の介」が破って門人数人を連れて舟島に渡ったのを見た浦人たちが「佐々木岩龍」もしくは「岸龍」をとどめたが、「武士が約束を破るは恥辱」とこれに一人で挑む。しかし武蔵には4人の門人が加勢していて、ついに岩龍は討たれてしまう。浦人たちは岩龍の義心に感じてこの舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった」と有りますので、勝敗は分かりません。勝てば官軍と行った所でしょうか?
一乗谷からのんびり滋賀に入ります。道の駅浅井三姉妹の郷に到着。
今日は176km走りました。
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