ひでです。お早うございます。首里城には11月8日に行きました。

場所:沖縄県

城主:第一尚氏王朝→第二尚氏王朝

石高:琉球王朝

別称:御城(ウグスク)

来歴:琉球統一を目指す尚巴志は、当時中山・北山・南山と呼ばれる3つの勢力が戦いに明け暮れる時代に、南部の一豪族から中山王を滅ぼして、首里城を拠点として整備したことから首里城の歴史が始まりました。

その後、今帰仁グスクの北山王を滅ぼし、続いて南山グスクの南山王を滅ぼし琉球を統一しました。

同時に、中国の皇帝に冊封(琉球王として認められた)して貰い、中国の属国としての立場を基に諸外国との貿易を進め、経済的に安定してきたところに、有力豪族や王族内部の王位継承問題での内乱が続き、重臣の金丸がクーデターを起こし、王の座を奪い尚円を名乗り明治へと続く第二尚氏王朝が成立しました。

江戸時代になり、関が原で敗れた島津藩が、琉球の貿易で得られる利益に目を付け、琉球に侵攻してきました。3000の島津軍の前に、長い間戦う事の無かった(せふぁ御嶽のおじさんが言っていました)琉球軍は大きな抵抗もしないまま降伏し、主な宝物を奪われ、王様以下重臣は薩摩に連行され、王は家康に謁見させられ、薩摩に帰った後には、薩摩による今後の琉球の統治方針を承認させられました。

(当時幕府は鎖国をしていても諸外国との貿易の窓口は持っておこうとしたのでしょうか?、こう見ると琉球侵攻は幕府公認のもとだったのでしょうか。)

その方針とは琉球王国を今まで通り独立国として、その実薩摩藩の傀儡として、中国に対しては独立国として冊封使を派遣し、その実、利益は殆ど薩摩に吸い上げられていました。また、奄美諸島は薩摩藩に組み込まれ、島民はサトウキビづくりを強要され蘇鉄を食べて飢えをしのいだと言います。(せふぁ御嶽のおじさんが言っていました)

明治になり政府は、表向き独立国の琉球を、先ず琉球藩として薩摩の支配から解き放った(ように見えた)んですが、それは琉球を独立国から日本国に組み入れる第一歩でした。その後、政府は宗主国の清国が弱体化していくと同時に「琉球処分」と称して、廃藩置県で沖縄も県となり、日本国の一部となりました。

清国は文句を言わなかったのかって?。日清戦争で日本に敗れ、沖縄に対する権利を失いました。(せふぁ御嶽のおじさんが言っていました)

首里城は江戸時代に2回全焼し、第2次世界大戦においては沖縄では唯一の市民を巻き込んでの地上戦が行われ、米軍の激しい攻撃にさらされ、指令部のあった首里城は崩壊しました。

敗戦で、アメリカによって支配され、苦難の道を歩くことを余儀なくされましたが、その後支配から解かれた沖縄では首里城の復元が進められました。しかし、つい最近原因不明の火災によって多くの建物が焼失しました。

青丸の駐車場に止め、

城内には入り、赤線の道を行った・・・と思います。

小曳門から入りました。一目見ただけで日本のお城とは違います。

門をくぐった所にある番小屋のような所に居たおじさんに石垣の積み方の種類を聞きました。

「野面積み・布積み・相方積みの3種類があります。年代によって違うんですよ」というお話でした。なぜ本土と同じ野面積みと言うのかは・・・聞きませんでした。

京の内に入ります。

この石垣の積み方は布積みですね。

この先には、この城で最も重要な御嶽が有ったそうです。日本の城にも神社がありますが、ちょっと違うようです。

琉球国には聞得大君を筆頭に一団の神女組織が有り祭祀を司っていたようです。城の中で、政治は国王が、それをバックアップしたのが聞得大君だったようです。

先ずは西のアザナへ行ってみましょう。

首里城の中にジャングルが・・・流石御嶽ですね。神聖です。

昔から物見台として使われている西のアザナに来ました。流石、お城だけあって高いんだ。

ここからは東シナ海が一望でき、貿易船などが見えたことでしょう。ここに鐘楼が有って時を知らせていました。

高いのは、昔の地図を見れば一目瞭然です。首里城は165mの弁が岳の上に作られていました。

アザナから見ると、城壁がうねうねとうねっています。これが日本のお城と一番の違いです。日本のお城の城壁は直線です。

こんな石垣は見たことがある。万里の長城だ!!

きっとこのカーブは、日本の城で言えば虎口のような役割だと思います。攻めて来た敵をあちこちから迎撃するのに最適なんでしょう。

ガジュマルのジャングルの中を戻って

御嶽に向かいます。

ここら一体が京の内で御嶽ですが。それよりも、石垣が凄いですね~。うねうね。

南の城壁から奉神門へ向かいます。この石垣の積み方が相方積みですね。

奉神門です。ここから先は入場料が要ります。

向かって左の広福門でチケットを買って、100名城のスタンプを押して、今から中へ入るんですが・・・

19年に火災で正殿を初め、主要な建物が燃えたんです。残念ですね~。

江戸時代の眺めとか

火災に遭ってからの眺めとか

再建の模様とか

工事現場とか

在りし日の姿とか

綺麗だな~。見たかったな~

正面に見えるのが首里城復興展示室

左の建物が王位継承に使われた世誇殿(よこほりでん)です。

現在は建物内の休憩スペースで、首里城ムービーを上映しています。琉球王国の歴史と首里城正殿跡の魅力を紹介しています。疲れて休憩するのに最適です。笑

中国への冊封使の道筋とか、江戸に向けた祝賀の使節が通った道とか・・・へ~江戸への使者は鞆の浦に泊ったそうです。流石、出るも入るも鞆の浦、鞆の浦が瀬戸内の旅の起点になるんですね。

東のアザナの方へ向かいます。

地図をもう一度。

白銀門(はくぎんもん)から御内原の外へ出て、アナザヘ向かう奥様

グルッと回って、矢印の所に奥様が居ます。立ち上がる石垣の壁、凄いでしょ?

手前に見える四角いのは国王が死亡した時に亡骸を安置する寝廟殿です。

東のアザナへ上れば、見晴らしが良いですね~。

高みから、お城も一望に出来ます。石垣の曲線も良いですね~。

アザナの中の、ウチアガリノ御イノベに参り

東のアガサを下りて、後ろから・・・何もありませんでした。笑

先に進んで、城壁に穿たれたガマです。昔は祈りの場所だったようです。

淑順門の前を通り

この変わった石垣が戦前の石垣だそうです。古さが出ていますね。

直立の石垣を見ながら進みます。

ハイビスカスの垣根を進みます。

右掖門(うえきもん)が見えてきました。

首里城の水の手は久慶門の所に一つ

先に進んで

瑞泉門

の所にも一つあります。特に瑞泉門の所にあるのは龍の頭をかたどった龍樋が有ります。中国では皇帝の印だった龍を使う事で、中国皇帝にあやかっているのかな?

歓会門に来ました。ここが首里城の正門になるそうです。

途中から入ったのね。

そう言えば守礼の門とはまだ出会っていませんでした。

ここを下りれば王陵(たまうどぅん)に行けるんで、順序とすれば間違ってはいないんですが。笑

これだけ書くのに2日かかりました。暇があるから出来るんです。笑

 

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