ひでです。お早うございます。エジプトに行く前にお城シリーズを仕上げなくては。笑

佐賀城には5月10日に行きました。

場所:佐賀県

城主:直島直茂

石高:36万石

別称:(旧村中城)

来歴:龍造寺家の村中城を、跡を継いだ鍋島直茂が改修・拡張して名前を佐賀城としたのが始まりです。

直島直茂は龍造寺の家臣なんですが、なぜ家臣が主家を差し置いて藩主になったのか・・・・よっぽど直茂がやり手なんでしょうね。水戸黄門では黄門様の囲碁相手という事で津川雅彦が演じてましたが。笑

直島直茂を語る時には、まず龍造寺家のお話から。

龍造寺氏は佐賀の地頭として守護大名の少弐氏に仕えていましたが、後に少弐氏を滅ぼし戦国大名に成長して行きます。

最初はいくつかの家に分かれていた龍造寺氏も家兼の代で勢力を伸ばした水之江龍造寺氏が隆信(肥前の熊と呼ばれ、信長の野望では武力が凄い)の代で周囲の龍造寺家を一本化し、近隣を従えて勢力を伸ばし、島津・大友と並ぶ九州の3強になりました。

やがて、宗麟の支配する地域と接するようになると大友氏が大軍を率いて村中城を襲います。10分の1にも満たない兵力の龍造寺隆信は籠城戦で応戦します。

龍造寺氏の家臣(従兄弟)で参謀役の鍋島直茂((信長の野望では武力・知力・政治力の全てが凄い)が放った間者が「大友軍は明日の総攻撃の前に酒盛りをしている(桶狭間みたい)」という情報を知らせ、それを聞いた直茂軍が大将の軍に攻めかかり、大将を討ち取る大戦果を上げ、鍋島直茂の名を不動のものとしました。

その後、沖田畷の戦いで隆信が亡くなると、最初は後継ぎの家政の補佐として実権を握るだけの直茂でしたが、早くから秀吉と通じ対島津戦の時は先方として武功を上げました。これを賞した秀吉から龍造寺の所領の内3万石を貰い、秀吉から内政を担当するように直接命じられたそうです。その後、朝鮮出兵にも藩主に変わって出陣していて、徐々に藩内の地位を固めて行きました。

関ヶ原の戦いでも、東西両軍がどちらが勝っても良いように作戦を取った鍋島ですが、東軍が勝つと積極的に九州の西軍を攻め、その功績で家康から藩内で直接支配を認められる(藩内藩)までになってきました。

その後、龍造寺家の藩主が亡くなると、後継ぎ問題で藩内で鍋島勝茂(直茂の子)を推す声が高まり、幕府公認の下で龍造寺の跡を継ぎました。流石に直茂が藩主になると簒奪のそしりを受けると思ったのか、息子の勝茂を初代藩主としましたが、龍造寺家を大切にすると見せかけて、息子たちに各地に支藩を建てさせ龍造寺家の力を削いでいきました。腹黒いですね~。笑

これで佐賀藩は明治まで続くこととなり、幕末には10代藩主直正が出て薩・長・土・肥と言われた新政府軍の一翼を担うことになりました。

明治になると、江藤新平らによる不平士族による佐賀の乱の舞台となり、佐賀城を乗っ取った反乱軍との衝突で受けた弾痕が門扉に今でも残って居ます。

さあ、お城に行きましょう。と言っても、平城なんで城へ行ったと言う感動は有りませんが。

城の前には直正が・・・?。何で直茂じゃないの?

鯱の櫓と続き櫓です。この門に弾痕があります。

天守台は何にも有りませんが、4階5層の天守閣が建っていたそうです。

一部を再現された本丸御殿に入りましょう

入り口には戊辰戦争で活躍したアームストロング砲が再現されていました。

御殿の中の展示は90%以上が明治維新と直正のものばかりです。直茂とか龍造寺とかの話は家系図くらい。

見学者を放っておいて内輪でやかましく四方山話に興じる受付のおばさん達に「龍造寺から藩主の座を簒奪した直茂について聞きたいんですが」と話したら、館長がみえられて「ここの展示は幕末に絞ってあるもので」「話は聞けないんですか?」と言うと「お話はうちの施設で聞けるんですが、何分学芸員が外出してますので」。というお話でした。

主家から藩主の座を簒奪した直政。何か都合の悪いことでもあるんでしょうか?。笑

 

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