ひでです。お早うございます。ここには4月30日に行きました。

場所:長崎県

城主:松倉氏→(色々)松平氏

石高:4万石

別称:森岳城

来歴:筒井家の重臣だった松倉重信(信長の野望でも優秀)の嫡男の松倉重政が有馬氏の転封の伴い4万石の城主として入城しました。

まず重政は、居城を日野江城から新たに島原城を築きました。でも、4万石としては分不相応なまで立派な城づくりのために、領民の限界を超える税を取り立てました。

(お城は破風の無い5層建てです)

天守閣だけでも立派ですが、城全体も凄いですね~。往時は櫓や門が60以上もありました。当時の中小大名が三重の櫓を天守閣代わりとしていたことを考えれば、まさに分不相応ですね。

前領主だった有馬氏が行っていた南蛮貿易を引き継ぎキリシタンを利用し、黙認していた重政でしたが、幕府がキリシタン政策を弾圧に切り替えてから、重政も手のひらを返し弾圧を始めました。

おりしも築城に対する重税と江戸城の改築に石高に似合わない分を請け負ったための重税に苦しんでいた領民に対し、キリシタンと同様に弾圧しました。例えば税を払えない農民とキリシタンの疑いのある者に「蓑」を着せてそれに火を点けて、苦しんで逃げ回る者を「蓑踊り」と称して痛めつけたり、雲仙地獄で熱湯をかけて拷問したり、あらん限りの非道をしました。

その息子の勝家も増税路線を推し進め、この世は地獄、死ねば極楽と言われるようになってきました。その鬱積した不満が噴出したのが島原の乱です。島原の乱と言えば弾圧されたキリシタンが起こしたと思っていたんですが、実際は農民一揆にキリシタンも混ざっていると言った方が良いと思いました。

最終的には島原の乱は幕府のよって鎮圧され、松倉氏は取り潰され、松倉勝家は乱の責任を取り打ち首になりました。

 

松倉もそうなんですが、森岳城(現、島原城)と言えば龍造寺対有馬・島津連合軍の沖田畷の戦いが近くで有りました。この戦いで肥前の熊とあだ名された龍造寺隆信が討ち死にして、九州の勢力図が書き替えられたんです。

畷と言うのは田んぼのあぜ道です。当時の森岳城の前は湿地でした。(赤い道があぜ道です。両側に湿地が広がっています)

龍造寺の圧力の前に降伏していた有馬氏ですが、大友氏が島津氏に敗れ、大友氏の勢力が衰退すると大友氏の領地を着々と奪って行った龍造寺ですが、島津氏の勢いが上だと読んだ有馬氏が龍造寺に反旗を翻します。

これを討つべく兵を出した龍造寺軍は5万を超えると言われています。対する有馬・島津連合軍は合わせて6千。誰の目にも龍造寺の勝ちは明らかでした。

大軍を前に、有馬・島津連合軍は沖田畷で戦うことを決めました。沖田畷は湿地帯に有りますので敵はあぜ道を進むしかなく、寡兵で当たるには絶好だと思いました。

相手を寡兵だと侮った龍造寺隆信は力押しの攻撃を命じました。対する有馬・島津連合軍は兵を3つに分け、陣の前に逆茂木などで防御し進軍を遅らせます。そして有名な「釣り野伏せ」戦法で待ち構えます。

本体が戦うと見せて、じりじりと下がり、龍造寺軍を敵陣奥深く誘い込みます。そこに、両側に伏せてあった軍が突入したことで龍造寺軍は大混乱になりました。周りは湿地で引くに引けなかったのです。

ここで不運にも龍造寺隆信が打ち取られ、龍造寺軍は惨敗しました。この戦いで龍造寺は衰退し、島津の九州での優位は確立されるんですが、隆信の跡を継いだ嫡男の政信の補佐をしたのが鍋島直茂で君主の地位を簒奪し龍造寺の後釜として大名になりました。

 

さあ、お城にのぼってみましょう~。工事中でしたが。

お城全体としてはこじんまりとしていますね。

加賀の熊は天守閣には登りませんでした。あったらもん(もったいない)で笑

 

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