ひでです。お早うございます。ここは4月21日に行った所です。

場所:佐賀県

城主:豊臣秀吉

石高:

別称:名護屋御殿

来歴:なぜ名護屋城と言う名前になったのか?きっと、その昔、近くに松浦一族の名護屋氏のお城が有ったのでそう言われたんだと思います。肥前に有るんで名古屋城と区別するために肥前名護屋城とも言います。

秀吉が最後に残った九州を平定して、大人しく国内の整備をしていればいいんですが、今迄部下に所領を与えて人心を掌握すると言う方法に国内では限界が来たせいなのか、主人だった信長の世界に進出しようと言う夢を受け継いだのか、唐入りを宣言してその足掛かりとして朝鮮王朝と交渉し朝鮮を基地として明(中国)を征服しようとしました。

ですが、当時の朝鮮王朝は明の属国的な位置づけでしたので交渉は決裂しました。なら、朝鮮を征服して明を目指すことに方針を変更し、その基地となる城を作りました。

そこに、出兵する各藩の陣屋が130余り建てられ名護屋の人口は多い時で20万人を超える大都市になりました。出兵している人と合わせれば30万人を超えていたそうです。その頃の江戸が10万人を超えて位と言われていますので、名護屋の繁栄のほどが分かると思います。

名護屋城博物館でお勉強します。

このあたり一帯が陣屋で、それを相手にする商人も沢山いたんでしょうね。

当時の城はこんなに立派です。それもそうですね秀吉が在陣しているんですから。

お城から直接港に行けたようです。

文禄役では朝鮮半島の中国との境迄攻め込んだ日本軍です。清正も虎退治なんかしたり士気が高い。行きはよいよい、帰りは恐い。

ですが、海戦で

李舜臣率いる朝鮮水軍に破れたことで、補給がままならないことになり

(蔚山上に籠城する清正軍)このような命を懸けた戦をしながら、必死に撤退して来る現場の将兵と、朝鮮との交渉役の小西行長や秀吉に近侍して、あることないこと吹き込む(ように見えた)石田三成とは仲が悪くなるはずです。

さあ、お城に向かいましょう。でも、何時もでが行くのは城跡の一部です。雨だったんで余計な所は行きませんでした。

大手口から入り三の丸を通って本丸へ。一人だったら二の丸とか行ったと思います。

大手口です。

東出丸へ

出丸からの眺めです。呼子大橋が見えますね。勿論秀吉の頃は有りませんでした。

三の丸方向へ

三の丸が有った所です。

本丸大手門行きました虎口が素敵ですね~。でも、大手迄攻め込まれたら負けですよね~。

本丸到着しました。

綺麗に整備された礎石のある天守台でした。ここに5層の天守閣が建っていたんですから、さぞかし眺めが良かったでしょうね。もう一度お天気が良ければ来たいな~。

色々大名の陣屋に行きたかったんですが雨だったんで止めようかな~と思ったら、道の駅の裏が加賀前田の陣屋跡だったんで、そりゃ行かなきゃならないでしょう。百万石行列には行ったことは有りませんが地元なんで。

田んぼの畔道を行くと(これも昔の遺構でしょうか?)

加賀藩の陣屋が一番立派だったそうです。そりゃ百万石ですから。笑

ひろ~~~い陣屋の跡でした。

 

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