ひでです。お早うございます。お城シリーズも残すところあとわずか。エジプト出発までに終わらせたい。笑

堀越城には6月1日に行きました。

場所:青森県

城主:武田氏?→大浦光信(久慈南部氏)→大浦為信(津軽為信)

石高:

別称:

来歴:戦国時代には青森の右半分は南部氏が支配していましたが、左側の津軽郡は群雄割拠の状態が続いていました。そこで南部氏は大浦光信を派遣し、津軽郡の支配を確立するとともに安東氏ら周辺国衆の抑えとしました。

光信から3代ほど下り、大浦為信が養子として大浦氏を継ぐと、大浦為信は城の補修の手伝いと称して、津軽郡の南部氏の拠点である石川城を攻めて南部家当主の叔父である南部(石川)高信を自害させました。(信長の野望では石川高信は統率力が高い武将です。引き換え為信は統率も知力も政治力も高いんです。為信の方が上ですね~。笑)

簡単に石川氏を滅ぼせたのは、南部家は当主の南部晴政に子が出来ず高信の子を後継ぎに迎えていましたが、自分に子が出来、その子を跡取りと考えたため、高信との間に内紛が起きていました。

そこを逃さず為信は石川城を攻め、攻略すると、次々と周りの城を攻略し、独立勢力として津軽の支配者になろうとしていました。しかし南部氏は強敵です。そこで、為信は後継ぎ問題でぎくしゃくしていた九戸氏と結び南部氏を牽制しました。

津軽郡を支配した為信は、親しくしていた最上氏から得た情報から中央の情勢を知り、大名と認められるには豊臣政権に対する工作が必要と考え、津軽名産の鷹と馬を持って秀吉に使者を送ります。そこで対したのが石田三成で、為信は彼に恩義を感じることになります。

首尾よく秀吉から大名として認められた為信は今度は公家の近衛家に接近して、折々に金品や米などの贈物をして、貧乏公家の近衛前久の養子となり、同じ養子の関白秀吉と義兄弟になりました。

その後、同盟者だった九戸氏を討伐津軽の統一に協力した千徳氏を滅ぼし、関ケ原の戦いにおいては家臣が反乱を起こすことを考え、裏切られる前に重臣を暗殺させるなど、生き馬の目を抜く戦国時代を生き抜きました。恐ろしいですね~恐いですね~為信も梟雄(きゅうゆう。下剋上を平然と繰り返す、残忍かつ勇猛な者)ですね~。

為信は弘前城が完成するまで堀越城を本城としました。

堀越城の前に堀越城のガイダンス施設を兼ねている旧石戸谷住宅を見学して。

いよいよ堀越城の説明を見ましょう。

説明してくれる人が居ましたので「為信は南部の家臣だったくせに主家を裏切った人でなしですよね」と言うと大慌てで「それは違います。津軽にははっきりとした統治者が居ませんでした。そこで、為信は切り取り次第で領土を広げたんです」と、分かったような分からないような。

「ですが関が原で石田三成が敗れるんですが、良くしてくれた三成の息子と娘を匿ってあげたんです。決して悪人ではありません。「ですが、東北仕置きに津軽へ来た前田利家が「表裏の人」と呼んでいますので、善人と言う訳でもなかったようですね」。笑

という事で、津軽為信は伊達政宗や毛利元就、真田昌行のように「煮ても焼いても食えない謀略の徒」ではなかったようですが、まあまあ悪人だと思います。まあ、利家は真面目一途ですから。

なんか石川の人間って真面目が共通してますね~。私もですが。笑

堀越城の真ん中を道路が走っています。道路の下を通って本丸へ行ったような。記憶が曖昧です。笑

堀越城跡の碑と共に。日差しが強くて日傘です。

土塁の上から本丸へ向かう奥様を写します。当時の東北のお城は土塁がほとんどでした。

内堀に架かる橋を通って本丸へ

 

 

本丸御殿が有りました。

為信は北条征伐とか唐入りとか江戸とか、何度も先進の城を見て来たことと思います。

都の豪華絢爛の城を見たら、新しいお城が建てたくなりますよね~。

あ、そうそう。「南部と津軽は仲が悪いと聞きますが、本当でしょうか」とガイダンス施設の方に聞いたんですが「仲が悪いです」ときっぱり言われました。笑

 

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