ひでです。お早うございます。今日から東北です。山形城には6月8日に行きました。
場所:山形県
城主:斯波氏→最上氏(斯波氏が改姓)→鳥居氏→(沢山)→水野氏
石高:57万石(最後には5万石)
別称:霞城
来歴:山形城は、南北朝の頃羽州探題だった斯波氏が築きますが、子孫は地名を名乗り最上氏としてこの地を治めました。
山形が一躍有名になるのは最上義光の時代です。その時まで最上氏は伊達氏に臣従していたのですが、義光と父義守が家督について争い、それに娘婿(義光の妹)の伊達輝宗(政宗の父)が義父救援を目的に最上領に軍馬を進めました。
周りの豪族も父方に付き四面楚歌に陥った義光でしたが、どんなウルトラCを使ったのか?義光に有利な形で和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功しました。
独立を果たしたと言っても、領内には庶流の天童氏など義光に従わない者も沢山いて、なかなか最上一郡の統一も果たせませんでしたが、政略結婚や、内応・謀殺など権謀術数の限りを尽くし、最上一郡を支配下におさめました。さすが東の蝮ですね~。
甥の伊達政宗が麒麟児になると見た義光が、妹(政宗の母)を取り込んで政宗を殺そうとしたことは有名です。
最上一郡の大名だった義光が東北有数の大名となったのは関ヶ原の戦いの時でした。当初、会津上杉(120万石の上杉が軍備を増強しているという事で)討伐として、家康が小山まで来たところで、三成挙兵の方がもたらされ上方に向け反転しました。
その時、上杉を包囲するため出陣していたのが、東軍の最上義光、前田利長・堀秀治、佐竹義宜でした。西国への家康反転の知らせを受け動揺する中で、直江兼続が最上の支城、志村光安の守る長谷堂城に攻めかかりました。これが、東の関ヶ原と言われた長谷堂城の戦いです。
義光は政宗に援軍を頼みますが、政宗から来た援軍は戦いを見守っていただけだったそうです。勝った方に味方しようとしたんでしょうか?流石癖者ですね~。
最上軍はよく戦い、戦いの最中に関が原で東軍が勝利し、兼続は軍を引くんですが、上杉は120万石から30万石と大幅に所領を削られ、最上は24万石から57万石と大きく所領を増やし東北の大大名となりました。でも、最上氏改易の後、色々領主が変わりましたて、最後の領主だった水野氏の時には5万石しかなく、城の維持さえもできなかったと言われています。ふ~疲れた。笑
それでは義光が拡張して大きくした山形城へ
東大手門の櫓門をくぐります。
櫓を抜けると長谷堂の戦いに出陣する義光公がお出迎え。
本丸一文字門に向かいます。
一文字門の大手橋を渡り
桝形を抜けると
本丸跡に出まし。そこには水の手がありました。
折角だからと、山形市郷土資料館へ行きましたが・・・
後ろから出て駐車場に戻ろうとしましたがお堀が有り、土塁の上をぐるっと回って堀を渡る所を探したんですが・・・ずっと遠くの陸橋を渡る羽目に。しまった!痩せてしまった。笑
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