ひでです。お早うございます。ここには17日に行きました。いよいよ北海道・東北の旅も千秋楽となりました。

このお城は戊辰の役を戦い抜いた悲運のお城として有名ですが、明治に入ってから解体されてしまいました。残念ですね~。

でも信長の野望では、ここは黒川城となっていて、蘆名盛氏の居城なんです。会津若松となったのは蒲生氏郷の時からです。

場所:福島県

城主:蘆名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉氏→加藤氏→保科氏(松平氏)

石高:120万石→30万石

別称:鶴ヶ城

来歴:さっきも言ったように、黒川に居城を築いたのは神奈川の三浦氏の一族で相模の国の芦名出身です。

盛氏の時に最大版図を築いた蘆名氏ですが、後を継いだ息子が子供がいない内に亡くなってしまい、後継者を巡って内紛が起きました。その内紛に乗じて戦を仕掛けてきたのが伊達政宗です。

蘆名20代目の義弘は敗北し黒川城は伊達政宗の手に落ちました。ですが、秀吉の定めた奥州仕置きに違反するとして、血を流して奪った黒川城を手放しました。

そこで、伊達政宗の抑えとして92万石で黒川に入ったのが蒲生氏郷です。氏郷は92万石にふさわしい(現在の城より)立派な城を立てたと言われています。その時、町の名前も会津若松に改めました。

若くして氏郷は亡くなり、跡を継いだ息子の秀行は92万石を治めきれず、お家騒動が起こるなどして国替えをさせられています。一説には頼りない男だから家康・正宗の抑えにならないだろうと三成が判断したため国替えになったとか。後には上杉景勝が120万石で入りました。

関ヶ原の戦いの仕置きで上杉は米沢に移ると、蒲生が復帰するも再度のお家騒動で転封となり、代わって加藤氏が入りました。(賤ケ岳七本槍の加藤氏です)

その加藤氏もお家騒動で改易となり、後には家光の弟の保科正之が入り、松平姓と葵の紋を拝領して明治まで続きます。

そういう徳川との関係と、自分が水戸藩の血筋から養子に入った関係から将軍家とはかかわりが深く、京都守護職に就任してから容保の運命は徳川宗家と歩みを同じにします。大政奉還後は否応なしに新政府との対立の矢面に立たされ、会津は朝敵とされ新政府軍は会津藩を攻めるために奥州へ向かいます。

奥州列藩から出された会津藩に対する嘆願書も無視する新政府側に対し、奥羽諸藩は団結して奥羽列藩同盟を結成し対抗していましたが、各個撃破され会津藩もついには降伏します。

通常の戦いではもう少し戦えたと思うんですが、離れた山の上から大砲で狙われてはひとたまりも有りませんね。

黄色丸の所が駐車場になっていますので、止めて歩きます。

先ほど書いたのが適当じゃない証拠です。笑

一度正面の廊下橋門から入りなおして。

昔来た時に受付のおじさんに「入り口が分かりにくいんですね~」と聞いたら「大きな入り口だったら敵が攻めてきても、お城の用は果たさないよ」と言われ、なるほど~って思ったことがあったな~。笑

帰る時には黄金に輝くお城が見れました。

 

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