ひでです。お早うございます。ここには12月18日に行きました。
場所:兵庫県
城主:別所氏→(色々)→池田輝政→(明石藩に編入)
石高:
別称:別所城
来歴:赤松氏の信任を受けた別所氏が築城しました。一時浦上氏によって落城しますが、浦上氏が討たれると、別所氏が三木城に復帰しました。その後、周りから攻められますが守り通しました。
信長の勢力が播磨まで及んでくると別所氏も信長に臣従することにして、秀吉軍と共に毛利勢を攻めることになっていました。
ところが、いざその時になって別所氏は信長を裏切り毛利方につき、籠城してしまいました。なぜなんでしょうかね?。色々理由があったと思いますが、時代を読み違えたんでしょうね。
上月城の後詰に行っていた秀吉が、取って返して三木城を包囲しました(だから山中鹿之助が亡くなることになったんです)。それから3年近くにわたる三木城の包囲戦が始まりました。
先ず秀吉は、淡河城の他30ほど有った三木城の支城を各個撃破で順番に潰して、三木城を丸裸にしました。そして、沢山の付け城を作り、兵糧が運び込まれるのを防ぎ、三木城を兵糧攻めにしました。
それが「三木の干殺し」で有名な兵糧攻めですが、村人を城内に逃げ込むように仕向け、兵糧が早くなくなるように仕掛けました。じゃなくても、2年近くも籠城していると兵糧が尽きてしまいますよね。
最終的には一族の切腹と引き換えに城内の人は助けられたと言いますが本当でしょうか?。百姓から身を起こし、太政大臣にまで上り詰めた立志伝中の人の秀吉ですが、そうなる時には汚いことも相当したんでしょうね。
(ネットより)
前段で書いたようなことをビデオでやっていました。
三木城は戦国以前に築城されたんで土塁で囲まれていました。赤丸が資料館の位置です
お勉強をしたら、遺構へ出発です
資料館から忠魂碑を見て別所長治の石像を見に行きましょう。
道路を渡って
本丸跡へ
忠魂碑を見て
別所長治の辞世の句です。「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちに代はる 我が身とおもへば」と読んでいます。自分の命の代わりに兵や領民の助命嘆願をしたんですね。
籠城に欠かせない水の手です。食べるものは塀を壊して中の藁まで食べたそうです。
学生を中心にした皆さんが町おこしですって。生き残った人の末裔かな?。笑
本丸からみる三木の街は平和って良いな~って言っているような。
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