ひでです。お早うございます。ここへは12月1日に行きました。
あまり知られていませんが。というより、私は知りませんでしたが、このお城、石垣が凄いんです。
場所:兵庫県
城主:安宅氏→仙谷氏→脇坂氏→・・・→稲田氏(蜂須賀家老)
石高:3万石(脇坂氏)
別称:三熊城
来歴:紀伊熊野水軍の一族の安宅氏が築城しました。後に独立した勢力となった安宅氏は三好4兄弟(長慶・義賢・冬康・一存)の冬康が養子に入り、最終的に三好氏の勢力圏は山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に及びました。
やがて、信長の台頭によって三好氏は弱体化して行き、淡路も秀吉によって攻められ、降伏しました。その後、仙谷氏が淡路を領しました。
その後、賤ケ岳の七本槍の一人の脇坂安治に与えられ、今のお城は脇坂氏が改修したと思われます。関ヶ原の戦いで、寝返ることで命脈を保った脇坂氏が転封になり、最終的に淡路は蜂須賀氏の所領になり、蜂須賀氏の家老(客分として正勝と行動を共にしていた)であった稲田氏が城代として幕末まで続きます。
稲田氏は小六正勝とは兄弟の盃を交わした仲と言われ、蜂須賀藩の家老となっても、1万石以上の破格の扱いを受けていました。しかし、家来は家来、特に稲田氏の家来は蜂須賀の直臣とはならず、陪審と言う立場で色々差別を受けていました。
明治維新の時も、幕府側だった蜂須賀藩の中で、稲田一派はいち早く政府側に付き活躍しました。ところが、明治になり版籍奉還が実施されると、稲田氏の家臣は士族とはならず、政府からの給与が貰えないことになってしまいました。
これでは、政府側として活躍した稲田氏の家臣は不満が募り、士族への編入を求め新政府への嘆願を重ねました。もし、稲田藩として認められれば、士族として認められるという方法も模索しました。
黙っていられないのが蜂須賀藩です。これはお家騒動だという事で、稲田家臣を襲撃しました。それに対し、稲田家臣は無抵抗を貫きました。
結局、加害者側の蜂須賀家は主導者が切腹するなど処罰され、稲田氏の家臣は士族に編入されることになりました。しかし、北海道への開拓を命じられました。そして、折角手に入れた士族の立場も、廃藩置県で藩とか士族とか関係なくなってしまいました。
現在も、入植した東静内町には稲田屋敷跡や稲基神社が建立され、先人の苦労を偲んでいるそうです。
馬屋駐車場に車を入れ
大手口からお城へ入ります。
よく覚えておいて下さい。私は携帯に残します。
本丸へ向かいます。
池のほとりの日月の井戸を通って
日月井に出ます
南の丸隅櫓跡を通って
天守の方へ
大石段を登れば
天守台が見えますね。
本丸の搦手虎口から入ると
模擬天守が・・・ちゃっちい
天守台に上ります
天守台からの眺めです
東一の門跡まで行って駐車場に戻ります。
沢山石垣も見れ、見所満載のお城でした。
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