ひでです。お早うございます。お風呂のお話も書くことが無くなったんで、以前行った城跡の話でもしましょう。でも、お城の話は自分の知っている事が正しいか検証する必要があるんで時間がかかるんだよね~。
ここは去年の11月30日に行きました。
この駐車場が分からず、あっちへうろうろこっちへうろうろ。ジモティーに聞いても「そんな城址って有ったっけ?」と言われる始末です。地元の事をもっと勉強して下さいよ~。
場所:兵庫県
城主:波多野氏→(松永久秀)→前田茂勝→松平氏
石高:
別称:八上高城
来歴:応仁の乱で戦功のあった波多野氏が、丹波守護の細川氏から所領を与えられたのが始まりで、やがて勢力を伸ばし、手始めに守護代の内藤氏を滅ぼし。やがて守護の細川氏を追放し丹波1国を支配しました。
戦国時代には三好・松永勢に落城させられましたが、再度奪還し丹波を支配しました。
織田信長が上洛し、波多野氏も臣従を誓い丹波の支配を認められましたが、明智光秀による丹波の抵抗勢力の掃討作戦に従軍中に突然反旗を翻し信長軍に襲いかかりました。
その後、光秀軍は周りの城を落としつつ、作戦を兵糧攻めに切り替え城から蟻の子一匹出られないようにした。その裏で降伏勧告も同時に行い・・・ある本には、光秀が開城の代わりに城主の波多野秀治・秀尚兄弟の所領を安堵し、命を助ける。その他に光秀の母のお牧を人質に八上城に送りましたが、信長によって波多野兄弟は安土で磔になり、光秀の母は八つ裂きになったと言われています・・・籠城もむなしく、波多野兄弟の命を助ける代わりに開城しました。
しかし、波多野氏を憎む信長の命で磔になってしまい光秀の面目は丸潰れになったことも、後の本能寺の変の引き金になったと言われています。(信長のせいで母親が殺されたんなら尚更ですね)
関ヶ原の戦いののち、前田茂勝、松平康重が入城しますが、丹波篠山城が築城されたので八上城は廃城されました。
天守のあった山頂まで右衛門コースを登りましょう。この地図を頭に入れておいて下さい。
山頂まで約1km。45分と書いてありました。
波多野氏の後を継いだ前田茂勝の供養塔です。前田茂勝は玄似の息子で、半狂乱の末家臣の多くを殺した暗愚の藩主です。
さあ、登って行きましょう。林の中を進み
よく整備された道を
鴻の巣の番所跡に出ます。
ここから尾根伝いに
もう少しで本丸跡です。
本丸が見えます。
本丸には波多野秀治公の表忠碑が有りました。
兵どもが夢の跡ですね。
岡田丸を回って下りました。
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