ひでです。お早うございます。以前、石川にも緊急事態宣言を発令する前の話ですが、と言っても自粛の時だったんですが、誰もいないだろうと思いまして、末森城跡へ行ってきました。末森城跡って言っても、知る人ぞ知るといった山城ですが、こので行われた戦いが前田家が100万石の礎を築いた戦いだと言っても過言ではありません。

 

城跡の横の道はよく通りますが、いつもは城跡を横目で見るだけなんです。自粛の今は誰もいないと思われますので、自然の中に行きましょう。

ここの城将は奥村永福(ながとみ)で、押水は加賀国と能登国をつなぐ交通の要衝で、そこを守っていました。地図的には石川のくびれた部分です。

この城を守るのは500~1,500名足らずと云われています。対して攻め寄せた佐々成正の軍は1万5千と云われています。

このとき中央では、本能寺の変後に織田家を2分し、それぞれに味方する羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手で戦っていて、家康に同調した成正が、秀吉に近い利家を襲い、小牧・長久手の戦いを有利に進め、隙あらば能登を自分の領地にしようと画策したんだと思います。こんな山城に場違いなじぃじと孫が。笑

*大部分口から出まかせがあると思いますので、良い子は信用しないように。笑

道の途中で見つけた猩々バカマかな?誰か教えて~。

その時、尾山の城(石川の年寄は金沢と言わず尾山といいます)で知らせを聞いた利家は駆けつけようとしますが、今すぐ集められる兵力は2千と少々

その時、お松の方は利家に向かって「小判に槍を持たせれば如何か。いつもケチケチして家臣を雇わぬからだ~」と言ったと云われています。恐ろしい奥さんですね~。ケチケチと言う言葉は、私もうちの奥様からよく言われます。笑

 

利家はよく槍の又左と云われていますが、この頃になるとソロバンの又左と云われたとか、なんにしてもケチなんです。笑

もうすぐ本丸跡に到着します。ここまでゆっくり山道を30分足らずです。西の方を見ればが見えます。尾山の城で知らせを受けた利家は津端を通って、成正軍に見つからないように海沿いを進みました。

 

これをお読みの良い子たちは「砂浜なんて馬で通れないだろう?」と思うかもしれません。成正だってそう思って海沿いが手薄になっていたと思われます。

 

さあ、なぜ砂浜を馬で通れたのか・・・そこは、有名な千里浜(の、外れの方)だからです。今でも日本でただ一か所車で通れる砂浜が千里浜なんです。

利家軍の奇襲を受け、さしもの成正軍も退却を始めたということです。感謝のしるしでしょうか?現前田家当主のお手植えの松がありました。

両軍には4000対15000の圧倒的な勢力の差がありましたが。城将奥村永福の頑張りもあって末森の戦いに勝利しました。成正の旧領の富山も、後々前田利家が預かり、ここに加賀百万石が成立します。

 

当の奥村家は代々加賀八家として1万石以上を領しました。1万石以上は大名ですが加賀100万石ともなると家老でも大名並みです。明治になり子孫は男爵になりましたが、そのまた子孫は金沢の幸町でステーキハウス男爵をやってます。彼とは長く会ってはいませんが。笑

小さな子供が海の方を見て何を思っているんでしょうか?。きっと将来は歴史学者になりそうです。笑

 

あ、そうそう。進退窮まった成正が冬の立山サラサラ越え(日本アルプス)を越えて駿河の家康に会いに行ったんですが、家康から合力することを断られ、すごすごと帰って来ました。可哀想な成正です。

 

自然の中なら行っても良いかと

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