ひでです。お早うございます。言っときますが此処はまだローマです。笑

 

*サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂

ローマ にあるカトリック教会 の大聖堂 です。ローマの四大大聖堂の一つに数えられており、このラテラノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂 、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (城壁外の聖パウロ大聖堂)がそうです。

 

さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大大聖堂と呼ぶこともあるそうです。ラテラノ大聖堂はバチカンの領域外にありますが、ラテラノ条約によってバチカンの特別な権利が認められているそうです。

 

古代においてラテラノ大聖堂は「救世主大聖堂」と呼ばれ、ローマの協会のランク付けでは最上位に置かれており、信徒たちの敬意を集めたそうです。

 

元々、この場所にはラテラヌス家という一族が豪華な邸宅を構えていたそうで、一族の中から初めてコンスル(執政官)を輩出し、絶頂の時にネロ皇帝に対する反乱の容疑でとらえられ、邸宅と財産を没収されたそうです。

 

その後、この邸宅はコンスタンティヌス帝からキリスト教徒に所有者を変え、教皇の住まいとなり、名前もラテラノ宮殿(教皇宮殿)になり、後に拡張され司教座聖堂(カテドラル)となったそうです。

 

世界の中心たるローマで最大の聖堂ですから、世界の母なる聖堂と称され、聖堂の中の聖堂としての栄誉を受けました。

 

歴代教皇たちはラテラノ宮殿で暮らしましたが、14世紀のフランス人教皇クレメンス5世はフランス王の意を受けて聖座をフランス領内のアヴィニョンに移すことを決定したため、教皇庁がアヴィニョンに置かれていた間にラテラノ大聖堂と宮殿は荒れるに任されました。

 

長らくアヴィニョンにあった教皇庁は紆余曲折をへてようやくローマに戻りましたが、ラテラノ大聖堂と宮殿は荒れ果てていたため、教皇はとりあえずテヴェレ川沿いのサンタ・マリア大聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)に住むことにしました。後に教皇の居住用にサン・ピエトロ大聖堂の隣に教皇宮殿がつくられそちらに移りました。以後、教皇は現代に至るまでバチカンの教皇宮殿で暮らしています。

 

また、ラテラン・オベリスクは,世界中のオベリスクの中で最大のものです。元はエジプト,ルクソールのカルナック神殿にあったものです。

 

このオベリスクはトトメス3世の時代にアスワンで掘り出されましたが,カルナックの工房に横倒しになったまま35年も放置され,孫のトトメス4世によってカルナック神殿に立てられたと書かれています。通常オベリスクは2本一対として立てられますが,これは1本だけ立てられたようです。

 

それから約1300年後クレオパトラを自殺に追い込んでエジプトを征服したローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝がオベリスクに惚れこみ,カルナック神殿にあったこのオベリスクをローマに持ち帰ろうとしたのですが,大きすぎて実現しませんでした。

 

余談ですが,彼はそのとき,代わりのオベリスクとして,ヘリオポリスの太陽神殿から2本のオベリスクをローマに持ち帰りました。これがオベリスク略奪の始まりとされます。その2本はいま,ローマのポポロ広場とモンテチトリオ広場(下院前)にそれぞれ立っているそうです。

 

今までの説明は、すべてローマ市内にあります。これだけ見るのも2~3日はかかりそう。笑

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