ひでです。おはようございます。
紀元前53年、パルティアへ遠征していた三頭政治の一角であるクラッススが戦死したことにより三頭政治は崩壊しました。
また、紀元前54年にポンペイウスに嫁いでいた娘ユリアが死去したことも受けて、ポンペイウスはカエサルと距離を置き、三頭にとって共通の政敵であったカトや元老院派に接近したため、両者の対立が顕在化しました。
元前49年、カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる『元老院最終勧告』が発布されました。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入しました。
1月10日にルビコン川を渡る際、彼は「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた」と檄を飛ばしたと云われています。
ルビコン川を越えたカエサルはアドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指しました。対するポンペイウスはローマにいたため即時の軍団編成を行えず、イタリア半島から逃れ、勢力地盤であったギリシアで軍備を整えることにしました。多くの元老院議員もポンペイウスに従ってギリシアへ向かいました。こうして、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にしたのです。
ローマ制圧後、マッシリア包囲戦とイレルダの戦いでヒスパニアやマッシリア(現マルセイユ)などの元老院派を平定して後方の安全を確保し、カエサルが独裁官として仕切った選挙で紀元前48年の執政官に選出されました。
そして独裁官を10日余りで自ら辞任し、ローマを発って軍を率いてギリシアへ上陸しました。元老院派の兵站基地を包囲したデュッラキウムの戦いで敗退を喫しましたが、ポンペイウスが自軍の勝利を信じられず、掃討戦を行わなかったため、再起を果たしたカエサルは紀元前48年8月のファルサルスの戦いで兵力に劣りながらも優れた戦術によって勝利を収めました。
ポンペイウスはエジプトに逃亡しましたが、9月29日 、プトレマイオス朝の都アレクサンドリア に上陸しようとした際、プトレマイオス13世の側近の計略によって迎えの船の上で殺害されました。後を追ってきたカエサルがアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だったと云われています。
そろそろカエサルの短い絶頂期を迎えます。
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