ひでです。お早うございます。歴史についてもう1章。
コンスタンチノープルは1,000年続いたローマ帝国の最後の灯でした。
当時はオスマン帝国がヨーロッパへの覇権のために虎視眈々とコンスタンチノープルを狙っていました。
当時のオスマン帝国皇帝メフメト2世は、当初は友好的な態度を取っていたものの、東ローマ皇帝コンスタンティノスが帝国を維持するためにとったオスマン帝国撹乱作戦に対して怒り、1452年7月にはボスポラス海峡のヨーロッパ側沿岸にバルカン城塞という名の城砦を築き、コンスタンティノープルの征服を準備しはじめた。
これを受けたコンスタンティノスは、西欧諸国からの援軍を得るため1452年の暮れに東方正教会をローマ・カトリック教会 に統合させると宣言しました。
これは兄で教皇のヨハネス8世がフィレンツェ公会議で署名した東西教会の合同決議に従ったものです。
しかし、この宣言は国民から猛反発を受け、大臣兼軍司令官に至っては「枢機卿の四角帽を見るくらいなら、スルタンのターバンを見るほうがましだ」と公言してはばかりませんでした。
それについては、メフメト2世の現実主義的な性格から、たとえ征服されても信仰の自由は保障されるとの意見も根強かったとからだと言われています。
結局西欧からの援軍も得られず、コンスタンティノスの最後の外交的努力も国内に亀裂を生んだだけで終わってしまいました。
1453年4月、メフメト2世率いる10万のオスマン帝国軍はコンスタンチノープルを包囲しました。
メフメトはコンスタンティノープルを明け渡せば、皇帝の安全な退去、財産の補償及びギリシア南部ペロポニソス半島に設置されたモレアスの領有を認め、東ローマ帝国を存続させると提案したそうですが、コンスタンティノスはローマ皇帝として最後まで戦うことを選択し、そうスルタンに返答しました。
コンスタンティノス率いる東ローマ軍は2ヶ月にも渡って抵抗を続けましたが、1453年5月29日未明、ついにオスマン軍が城壁を突破し、コンスタンティノスは大剣を抜き払い、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。 逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」との演説の後、親衛隊とともに市中に渦巻くオスマン軍の中に姿を消したそうです。
こうして、紀元前753年 に起源を発するロムレスとレムスのが作ったローマ帝国のアウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶え、ローマ帝国は滅亡ました。
この戦いのとき、フィレンツェ、ベネェチアなどのイタリア諸国をはじめ、フランス等のヨーロッパの国々も陰ながらではありますがローマ帝国を応援しましたが、オスマン・トルコの力の前に逆らうことが出来ず表立って行動は出来ませんでした。
コンスタンチノープルの陥落については、塩野七海の本に詳しく載っています。笑
最後の皇帝と言う言葉が淋しいですね。これがローマ帝国の終焉です。
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