400年以上前倉敷市一帯は吉備の穴海と呼ばれていて、

16世紀末の宇喜多秀家の時代に今の市街地北部が干拓され、

江戸時代になって南方へ干拓が進められました。

 

江戸時代の宝永年間に添新田村に流れる汐入川の東岸部に、

干拓工事の為の基地となる河港が造られます。

すると、児島湾に抜ける汐入川の水運の要衝となり、

人夫相手の茶屋、船宿や問屋が建ち並ぶ町が形成されて行きました。

 

寛政時代には川沿いの道が金毘羅参りの街道になり、参拝客相手の店が増え、

この町並みはいつしか通称茶屋町(ちゃやまち)と呼ばれるようになります。

 

茶屋町の起源は諸説ありますが、

一つは、岡山藩家老の天城池田氏が所領の天城から岡山城下町への

往来時の休憩所として利用する茶屋があったこと。

二つ目は、金比羅への参拝客向けの休み茶屋が多く立地していたこと。

三つ目は、町並みの中に著名な有力茶屋があったこと。

 

いずれにせよ江戸時代は茶屋町としてかなり繁栄したようです。

 

そして

 

児島が島嶼だった頃、天城は広田島(標高34m)と呼ばれる島で、

小規模の漁業集落が古くからありました。

藤戸と天城(広田島)の間は海峡で、これが倉敷川の前身です。

『藤戸町誌』には、広田島西部の桜山に、清海大膳が元久年間(1204〜1205)に城を築城。

嘉吉2年(1442)には尼子氏家臣の天野六左右衛門が居城し、天城と称したとあります。

鎌倉時代より内海航路の要衝を押さえる水城のようなものがあり、

天野氏の居城が地名の由来となったそうです。

 

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1991年(平成3年)1月1日に廃線となった下津井電鉄(茶屋町~下津井)跡を

茶屋町から天城まで歩きました。

 

 

丁度満開の八重桜の下、散策には嬉しいですね。

 

 

廃線跡は遊歩道(風の道)になっていて、気持ちいいです。

六間川を渡ってるところ

 

 

江戸時代になってこの地を領有した岡山藩は干拓地の排水のため、

寛文3年(1663)に海へと至る約6.5キロの南六間川

(当時は亀山、西田地区の先が海だった)と、

足守川へ流入する約5キロの東六間川を掘りました。

幅が六間(約10m)あったことがその名前の由来です。

 

倉敷川に合流する南六間川

 

川を渡ると天城の廣田神社

 

ご祭神は天照皇大神と大國主命で脳病平癒にご利益があり、

天城池田家の墓所にも連なってるので、

池田公が墓参に際して祈願し休息されたそうです。

 

 

足神様、これはご利益ありそうで手を合わせました。

 

廣田神社を越えて、県立天城高校北側に出ました。

グラウンドは陣屋跡地だそうで石碑が見えましたが、入れなくて残念でした。

 

 

天城高校をぐるっと回って、天城池田家の墓所を訪ねました。

 

かなり広く、落ち葉が積もっています。

 

天城池田家の初代由之は、天正5年(1577)尾張国犬山で池田元助の嫡男として誕生。

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父は祖父・池田恒興と共に、

徳川家康軍の襲撃を受けて討死しました。

由之は幼少(8歳)のため、池田家の家督は叔父である池田輝政が継ぎます。

輝政は由之を不憫に思い、成長後に播磨国佐用郡周辺に2万2000石を与えます。

由之は輝政、利隆、光政に仕えて享年42歳。

 

調べてたら名だたる武将が沢山出て来ますね。

ちょっとこの辺で省略します。

 

2代由成が藩主光政の岡山移封に伴い米子から備前に移り、

寛永16年(1639)3万2千石の領主として天城に陣屋を構えます。

 

天城に陣屋を構えた池田由成之墓

 

2代由成の娘の熊子は赤穂藩家老の大石良雄の母で、

 元禄14年(1701)の赤穂事件の際、

4代由勝は大石良雄の従兄弟であることを理由に、3万石に減封されました。

 

   

 

正五位池田政和の墓

幕末期に幼少で家督を継いだ11代政和は、

明治24年(1891)に男爵に叙され華族となりました。

 

墓所裏の竹藪から見下ろした県立天城高校

奥の山の手前にもグラウンドがあり、天城池田家の陣屋がありました。

 

茶屋町から天城へ歩きましたが、

どちらの地名も面白いので由来は何かと思いましたが、

色んな歴史が分かって面白いですね。

 

この後倉敷川に架かる盛綱橋を渡って、源平藤戸合戦の舞台である藤戸へ行きました。

つづく