水江の渡しの近くに、高瀬通しの水門があるそうで連れて行って貰いました。


岡山県の主要河川(高梁川、旭川、吉井川等)では、

室町時代末期から高瀬舟が使用され始めました。

江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用されていました。

高瀬通しは江戸時代に新田の灌漑用水と高瀬舟による物流を目的に、

備中松山藩主の水谷勝隆、勝宗親子により造られた運河です。

二つの水門の開閉によって水深を調節し舟を通す仕組みで、

パナマ運河より240年も前に建設された、我国初の閘門式運河だそうです!


寛永時代(三代将軍家光の頃)には備中国も干拓事業が進み、

高梁川は乙島と亀島の間を流れるようになります。

そこで、高瀬舟が乙島沖を廻らなくてもいいよう、玉島港までを運河で直結しました。

当時玉島は北前船と高瀬舟の行き交う港で、物流の拠点として繁栄していました。

高瀬舟は下りは米、鉄、薪炭を乗せ、上りは塩、海産物、綿織物を運んでいました。


高瀬通しでは説明板の絵のように、船頭が棹を底に突き立て、

岸から曳子(ひきこ)が引っ張って舟を進めたそうで、大変でしたねぇ。

これは上りの時のことでしょうか?


1



先ずは高梁川に隣接した一の口水門から、高梁川(右側)の水を引きます。
2


下流の山が張り出してる所に、二の水門があるそうで行ってみました。
3


二の水門で蓋をして運河に水を溜めます。
4


ちょっと渡ってみましたが、風が強くて怖かった~(((゜д゜;)))

水深が2~3mになるよう、この間に堰板を通すのですね。
5

上流の一の口水門を望む。

ここに水が溜まったら、堰板を上げて高瀬舟を通します。

7


水門を高梁川堤防の方に渡りました。
6


下流方面、右側に山があるのでカーブしています。
8


なみなみと水を湛えた運河、現在は灌漑用水路として利用されています。
9


ここまで車で来ましたが、幅員が狭くこれ以上進めませんが、

玉島港まで9km程続いてるそうです。