岡山城は宇喜多秀家により築城され、慶長2年(1597)に天守閣が完成しました。
57万4千石に相応しい城をと、織田信長の安土城に倣ったそうです。
不等辺五角形の珍しい天守閣で城主の間もありました。
櫓が35棟、城門が21棟もあり、当時は我が国を代表する名城でしたが、
昭和20年6月29日の空襲で天守閣を焼失し、
現在の建物は昭和41年に復元されたものです。
旭川に架かる月見橋から見た岡山城、月も昇ってるならここからの眺めは格別ですね。
廊下門を潜ります。
石段を登ると月見櫓がありました。
こちらは空襲に遭わず当時のまま残っています。
南側からですが、西にも長~く石垣が連なってますが、フレームに入りません。
石垣は安土桃山時代初期の古い形式で、丸い自然石を用いた野面積みになっています。
石垣をぐる~っと周り、北側の旭川に出ました。
築城に際し流れを東に変えたので、城下が度々氾濫し大変だったようです。
藩主池田光政の時代にバイパス用として百間川を築き、
洪水が避けられるようになりました。
「武士の家計簿」の作者である磯田道史氏(岡山市出身)によると、
岡山藩にも忍者がいたそうです!
岡山藩「池田家文庫」に、「御忍衆」として実名で住所や待遇まで記録されていました
これは珍しく貴重な資料です。
天正伊賀の乱などで敗れ、浪人になった忍者は諸大名に多く雇われましたが、
岡山藩の忍者も全て伊賀衆でした。
元禄赤穂事件(忠臣蔵)では播州赤穂城下に潜入し、諜報活動をしていたそうです。
赤穂浪士が籠城して戦争にでもなると、
隣の岡山藩が真っ先に駆けつけなくてはならないので、
忍者を派遣して徹底的に調査したそうですよ。
江戸時代初期の俸禄は30石取り(今なら900万円)で厚遇でしたが、
世の中が平和になると次第に減給され、人数も減って行きます。
1613年61人→1705年頃17人→1850年頃10人と激減。
大阪冬の陣の前年に61人いた忍者は、
その後、池田家の領地が減らされたこともあって17人に減り、
幕末のペリー来航時には10人になっていました。
明治2年に忍びはお役御免になり、「ただの藩士になれ」
と、言われ、忍者達は大喜びしたそうですγ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ