源平合戦ゆかりの寺である藤戸寺は、

天平年間に行基が創建した高野山真言宗の名刹です。


源平藤戸合戦

1184年12月、藤戸海峡をはさんで北に源氏、南に平氏が対峙し、

源氏の佐々木盛綱が浅瀬を馬で渡り、先陣の功を果たします。

ところが、この時浅瀬を教えてくれた漁師を、盛綱は口封じの為に殺してしまいます。


海を馬で渡って来るとは思いもよらぬ平氏軍は敗走し、

屋島の合戦でも敗北、そして壇ノ浦の合戦で滅亡しました。


藤戸の戦いを勝利に導くきっかけを作った盛綱は、

源頼朝からこの地を拝領、戦乱で荒廃した藤戸寺を修復し、

両軍の戦死者と殺してしまった漁師を弔うために、

藤戸寺で大法要を行いました。


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本殿
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鐘楼
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大師堂

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鎌倉時代中期造立の石造五重宝塔(岡山県指定重要文化財)
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「沙羅の花と源平藤戸合戦をしのぶ会」が催され、参加して来ました。


沙羅は、朝に咲いて夕べに散るところから、

世の無常を象徴する花として、平家物語に登場します。


平家一門の栄華と没落がこの花に例えられ、哀れを誘います。


熱帯性の沙羅双樹は日本では育たないために、夏椿を沙羅としています。


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純白の花びらに濃い蕊の色、フリルが哀しく震えてるように見えるのは私だけでしょうか?


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高野山から株分けされた沙羅の木ですが、これも儚いですねぇ。
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藤戸海峡ですが、天正13年に岡山城主宇喜多秀家が干拓し、

新田を開墾したとされています。

江戸時代にも干拓地は広がり、下の画像が現在の様子です。


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山陽ハイツからの撮影ですが、

手前が源氏、向こうの丘陵に平氏が布陣したそうです。

ここが海だったとは知りませんでした。