デンマークの映画作家カール・テオドア・ドライヤーが、魔女狩りが横行する混沌とした時代を背景に、複雑に絡み合う人間関係を美しいモノクロ映像で描いた作品。中世ノルウェーの小さな村。


牧師アプサロンは若き後妻アンネと平穏な暮らしを送っていた。しかしアプサロンと前妻との息子マーチンが帰郷すると、マーチンとアンネは互いに惹かれ合う。やがてアプサロンが急死し、アンネが魔女として彼を死に至らしめたと告発されてしまう。


1947年・第8回ベネチア国際映画祭で審査員特別表彰を受けた。「奇跡の映画 カール・テオドア・ドライヤー セレクション」(2021年12月下旬~、シアター・イメージフォーラムほか)にてデジタルリマスター版で上映。



星正直、オールタイムベスト級の傑作だと思う。
カール・テオドール・ドライヤー。凄い監督だ。

数日前に、同じシネマヴェーラで同じ監督の『吸血鬼』を観たときは、正直何一つ僕と噛みあう部分がなくてげんなりしたのだが、こちらは打って変わって大興奮。ただただ打ちのめされた。
敢えてわかりにくいナラティブをとったり、才に走ったようなトリック撮影にかまけたりで些か自家撞着の気配のある『吸血鬼』と異なり、こちらは正攻法のまっすぐな叙述で「人間」の業を真正面から描いている。そう、これだよこれ。

ゆるぎない、ゆったりした進行のなか、静謐で息をひそめるような北欧の自然と家族のこまやかな描写に、リアルな「痛み」の演出が楔のように突き刺さる。
空気感としてはイングマル・ベルイマンやロベール・ブレッソンに近い映像作家だと思うが、そこに「恐怖」の感覚が絡んできて独特のテイストを醸し出す。
逆にホラーの文脈で観ると、常に通俗性とセットで扱われてきた「恐怖」の感覚を、「神の恩寵」というテーマと対峙させ、文芸の領域で扱うことに成功した、最初期の監督だったと言えるだろう。

物語は、有り体にいえば「よろめきドラマ」であり、若い嫁と夫の連れ子の不倫話に過ぎないのだが、その背後に「教会」という絶対権力の主導で「魔女狩り」が横行しているという現実が、陳腐な昼メロを締め付けられるような悲劇へと変じさせる。
誰かが誰かを「魔女」だと告発する。
それだけで、証拠もないままにひとりの人間が拷問によって自白に追い込まれ、火あぶりにされる。なんともおそろしい社会装置だ。
個人の憎悪が、絶対的権威のもとで、社会の正義へと変換される。
それが許されているということだからだ。
嫁のことが嫌いな義母が、息子が死んだ腹いせに、嫁を魔女だと告発することで、火刑台に送り込むことができる。正しい手順で。
日常のきわめて陳腐な感情のいさかいが、そこでとどまらず、ひとりの人格の社会的抹殺と命の剥奪まで行きついてしまう。それが「善」として奨励されている。
おそろしい。社会が狂えば、人もまた狂うのである。

本作の前半では、魔女の疑いをかけられた老女マルテが、ヒロインの家に逃げ込んで捕縛され、拷問によって自白させられ、火刑に処される。
「そのへんにいそうなただの田舎の婆さん」が、絶対悪としてレッテルを貼られ、哀願と脅しを繰り返しながら、命乞いをしつづける姿は、正視に堪えないほどの衝撃を与える。あの裸体。あのつぶらな瞳。あの絶叫。だめだ、こわすぎる。

ヒロインのアンネは、若く実り多いはずの青春の時期を、年老いた牧師の後妻として、息をひそめて浪費してきた。そこに留学から帰ってきた前妻の息子マーティン。似たような年ごろの若い二人は、ころりと恋に落ちる。
アンネはこれまで本当の恋を知らなかった。だから、いざ好きになったときに歯止めがきかない。無垢ゆえに、とりつくろえない。愛がむき出しになる。嫌悪がむき出しになる。
時間を惜しんで逢引にいそしみ、積極的にマーティンに誘いかけるアンネ。愛を勝ち取った高ぶりの裏返しとして、自分を憎んできた義母に冷笑的な態度をとり、遠出から帰ってきた夫に「ずっと死ねばいいと願ってきた」と口走る。
情熱的で蠱惑的な「女」の部分を抑えきれず、むしろ意図的にひけらかすのは、初めて知った恋に夢中で、長い抑制のなかで情緒が成熟していないがゆえの行為でもあるだろう。彼女は知らない。その「夢中さ」「女らしさ」が、やがて自らを身の破滅へと導くことを。
夫の死より愛の成就を上位に置くアンネののめり込みようが、不倫のさなかに父に頓死されて罪悪感に苦しむマーティンを怯えさせる。「ふつうの女は夫が死んですぐにぐいぐい来たりしない」からだ。
ふつうでない女とは何者か。それが「魔女」だ――というのが、この映画のロジックである。

中世的な宗教観に基づく女性像(夫に仕える貞淑な妻)から逸脱した、村はずれに暮らす独り身の老婆や、義理の息子を誘惑するような女は、すべからく「魔女」として告発されうる資格を有し、告発されたが最後、抗弁の余地も残されない。絶対権力が取り仕切る自白強制のシステムを支えるのは、最も優秀で道徳的な宗教者と、神を信じる善良な民草である。
ドライヤーは本作をナチス・ドイツ支配下の故郷デンマークで撮った。
どこまでそれが題材選択や作品の内容に影響しているかは知らないが、「社会規範から少し外れて見える」人間を「処刑」するシステムを持っていたのは、ナチス・ドイツもまた同じである。

ただ、本作でマルテやアンネが呪いをかけた牧師は、実際に「ふたりとも謎の急死を遂げている」。すなわち、二人が「魔女」である可能性自体は否定されない。この不吉で不穏なオカルティズムの気配が、映画を「一面的」な二元論から解き放っているのも、また確かだろう。

 

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