メイママさんご夫妻と過ごした楽しい日々の思い出④ | Cafe de himawari

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皆様 今日も一日 ごきげんよう。




(日にちが前後しますが7月5日)
我が家に初めていらした
ゆっくりご滞在可能なお客様を
必ずお連れするのは
ここ
Henry Ford MuseumやGreenfield Village!!!
メイママさんご夫妻を是非ご案内したくて計画していたの。

独立記念日後だし夏休なので
駐車場は混雑しているし遠いので
レイの夫くんに自宅からの送り迎えをお願いして
私とレイとメイママさんご夫妻の4人で入ったの
(^^)
まずはHenry Ford Museumへ



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<エジソン学会(Edison Institute)が管理・運営するヘンリーフォード博物館(正式には "ヘンリーフォード博物館とグリーンフィールドビレッジ:Henry Ford Museum and Greenfield Village)は、アメリカ最大級でミシガン州メトロ・デトロイトエリアに属する、ディアボーンの博物館複合施設であり、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている。
名前は自動車産業で偉大な足跡を遺し、この博物館を計画・建設したヘンリー・フォードに由来する。

49,000 m²ある屋内展示中心のヘンリーフォード博物館にはフォード劇場のエイブラハム・リンカーンの椅子や、ジョン・F・ケネディの車などがある。入館直後の広間には、この建物の鍬入れ式に出席した、エジソンが使ったスコップが立てられている。また、広大な敷地(360,000 m²)を有するグリーンフィールドビレッジにはトーマス・エジソンの研究所、ライト兄弟の自転車屋他、周囲を巡る蒸気機関車、さらにはリバーシップ(乗船可能)など開拓以降の歴史的建造物や乗り物が保存されている。

(ウィキペディアより)
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いつもの事ながら
ここは世界中からの見学者が多いわね~

中でも日本人は多くて
日本語パンフレットが一番早く出ちゃうって
チケット係さんがおっしゃっていたの@@
車の街だから車関係のお客様が多いからかしらね~

それでは この日のスナップ写真を載せましょう(^^)




ここは歴代大統領の公用車のコーナーで
一番 目をひくのは
やはり このキャデラック コンチネンタル!
1963年11月22日
あのジョン・F・ケネディが
テキサス州ダラスで暗殺されていた時に乗っていた車よ
当時 私も繰り返し放送されていた
日本の家のTVで見た あの車がこれだったの
日本人にとってもショックだったわよね~(><)





メイママさんが一生懸命 電気を起こしているの
電気って凄いパワーが要るのよね~@@



そうそう
飛行機の展示辺りで
メイママさんが説明ボタンを押して聴き始めた頃
私が
「さ~ 次、行きますよ~」って言ちゃったものだから
折角 聴こうって思っていたメイママさん
慌ててマシーンに「御免なさい折角説明を始めてくれたのに」って言っていたとか(笑)
放っておけば かってに消えるのだけれど
レイはメイママさんって ホント 
きちっとしていて優しいのね~って感心していたわ(^^)

それに比べ私はときたら
毎回 ここに来るので
ご案内順序通りに急いでいて
気が付かなかったわ(^^;)
ごめんなさ~い トホホホ






このエイブラハム リンカーンが殺害された時の椅子は
私がアメリカに住み始めた28年前よりずっと
血のりが薄くて黒くなって来た様に思うの
以前は もっと血の色が鮮やかで 
べっとり付いていた記憶があるわ
それにしても生生しい展示物ですよね~




エジソンのラストブレス!
仲良しのフォードが持っていたそうだけど
エジソンが亡くなる時に肺から取った最後の息よ
でもね~
見ると蓋だっていいかげんだし
ぜったい もう中は空っぽだと思うわ(^^;)




そして これ
ホンダがアメリカで生産した1号車よ。
輝かしい日本車の歴史でもあるわよね。
誇らしい<USA-001>ね!!!







そうして このバスには
まるで遠足に行く子供みたいに
私達4人は乗り込んだのだけど
実は これ
アメリカ合衆国の公民権運動の活動家
ローザ パークスが逮捕された時に乗っていたものなの


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ローザ・“リー”・ルイーズ・マコーリー・パークス(Rosa "Lee" Louise McCauley Parks, 1913年2月4日 - 2005年10月24日)は、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。

1955年にアラバマ州モンゴメリーで公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反の容疑で逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで、ローザは米国史における文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。

人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は米国内のみならず国際的にも高く評価されている。

(ウィキペディアより)
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要するに人種差別の歴史的バスだった訳ね

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当時、アメリカ南部諸州にはジム・クロウ法(Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され、公共交通機関を除く日常生活のあらゆる場所で黒人と白人は隔離されていた。制度上、バスやレストランなど公共の場所で人種隔離が実施され、また黒人の投票権も事実上制限されていた。深南部と呼ばれるアラバマ州も事情は同じだった。

1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。バス内は白人席と黒人席に分けられ、白人が乗車していない時は黒人も中間の席に座ってよいことになっていた。黒人席が一杯だったのでローザが中間席に座っていると、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。このため、運転手ジェイムズ・ブレイクは中間席に座っている黒人に立つよう命じる。座っていた黒人4名中3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。

1987年に放送されたテレビ番組で、ローザは「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」と述懐している。

1992年に出版された『My Story(『ローザ・パークス自伝』:邦訳著書参照)』においても、ローザは「疲れていたから立たなかったのでは」との指摘を「普段と比べて疲れていなかった」と否定し、「年寄りだったから立たなかった」「若者に対する差別だったのでは」との批判に対しても「まだ42歳で若かった」と反論。「屈服させられることに我慢できなかった」(*)から席を立たなかったのであり、単なるエゴではなく人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだと述懐している。

(ウィキペディアより)
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最後に 巨大機関車の前で


これから すぐ お隣のビレッジに移りますが
ミュージアムの中は ひんやり気持ち良いのよね~(^^)