探し物をしていたら
小学生だった花(娘、仮名)からの手紙が2通出て来た。
2通共に私が最後となった強制入院時、花は児童養護施設に預かっていただいている時の物。
経緯はわからないけれど
母が保管していた。
1通は覚えているけれどもう1通の内容に覚えはなくて、そちらの宛名に「入院しているママへ」となっていた。
またじっくり読んでみるけれど
どちらにも1回ずつ「さみしい」と書かれていて
それでも「ママが元気になるのを待ってるね」
とか「すぐにはいっしょに住めないかもしれないけど」とか亡きパパ含め大人に何て言われていたのだろう。
私が入院したらその日から退院まで数ヶ月花に会えていない。それは毎回同じ。
私だって錯乱状態から気づいたら花に会えないと思うと絶望していた。
花は沢山の我慢をしていたんだろうな。
だから私にもワガママを言えない子になった。
私は自分の親を毒親と大人になって気づいたけれど
自分自身が有る意味毒親の自覚くらい有る。
(毒親、てまだ使う言葉か不明)
私の精神科の病気のせいで
私が入院したら数ヶ月家族バラバラ。
小4の頃の〈二分の一成人式〉で赤ちゃんの頃の写真を学校に持って行く時は
乳児院でしか撮っていないから〈少しでも家ぽい写真〉を花が選んで私に「これなら大丈夫かなぁ?」と聞いて決めるという何とも??な作業をさせてしまった。
乳児院や児童養護施設に預けたのも花に申し訳ない気持ちだけれど
私も後で聞かされるまで知らなかった
児相が間に入って施設に行くのを決めると
1ヶ月間家族にも場所を教えられない施設で学校も行かず公園さえ行かず隔離生活をするらしかった。これは私とダンナさんの想像だけれどきっと虐待されての子が多いから場所は内緒なのと健康チェックの為(?)
後々花もそこでの生活だけはとても嫌だったと教えてくれたけれど
おトイレをしたら大人を「便、出ましたー!!」と大声で呼んで見てもらわないといけないのが特に嫌だったらしい。
児童養護施設で入れる場所が決まってダンナさんは児相の担当者とそこへお迎えに行って初めて場所を知り着る物もお借りしていたから家では履かせた事のない色のジャージを履いて走って出て来たとの事。
そしてそこを出て行くのも直前まで本人に知らされないし同じ部屋の子達には全く言わずに出て行くらしかった。
ママの事も手紙では「大好き」と書いてくれていたけれど本当に大好きなパパにも会えない。
私が出産後に精神科の病気にならなければ花の人生は大きく違ったしダンナさんの人生も変えてしまった。
私だって辛いけど家族て被害者だ。
では、また。