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結婚生活のすすめ〜scene12〜
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「ここの…さ?どら焼きがおいしいの。
帰りに買おうね。おばちゃんもどら焼き好きだから、鹿児島にも送る分も」
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「ん」
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「この先の海でね、お父さんとよく釣りしたんだ」
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「ん」
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彼女の実家に向かったその日。
正直、緊張で彼女の話し半分も頭に入ってへん。
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「壱馬くん?」
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「なぁ、ネクタイ曲がってへん?」
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「ん、大丈夫。…緊張してる?」
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「ん…まぁ」
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「ドームで唄う人なのに?(笑)」
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「それとこれとは、話しが別やから。
なぁ、俺さ…いきなり殴られたりせん?」
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「うちのお父さん剣道5段、柔道3段だよ?」
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「はっ?聞いてへん!」
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「ウソー、趣味は釣りと写真。
口数少なくて優しいお父さんだから大丈夫だよ」
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もうどこまでが冗談で本気なんかわからんけど、もうさっきから口の中はカラカラで。
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「ただいま」
茜さんが玄関を開けると「おかえりー」ってまあまあ大きな声と、パタパタってスリッパの音。
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「いらっしゃい。初めまして。本物だ!うわぁ、男前ね、やっぱり!」
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「あっ、初めまして。川村です」
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「ん、知ってます」
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もう、この人絶対茜さんのお母さんやんってわかるその受け答え。
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「お母さん、ちょっと!壱馬くん緊張してるんだから。ちゃんとしてよ!」
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『いや、茜さん?あなたもこんな感じやったで?最初』とは思ったもののそこは飲み込んで。
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「そっか、ごめんなさい。茜の母です。どうぞ、あがって?」
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並べられたスリッパを履いて案内されたリビング。 太陽の光がたくさん入る南向きのそこ。
実家って感じがして、落ち着く空間やった。
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「お母さん、お父さんは?」
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「何か落ち着かないらしくて、釣りに行ってる」
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「へっ?」
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「ほら、娘を奪いに来る相手と初対決だから」
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「お母さん! 言い方!
壱馬くん、そういう冗談無理なの!」
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「ふふっ、ごめんなさい」
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そう言いながらキッチンに向かうお母さんの後を茜さんが追ってく。
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『これ…俺マジでぶっ飛ばされたりするんかも』
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だってそうやんな。
自分に娘がいたとして。
『結婚したい』じゃなくて『結婚しました』なんて事後報告で。
しかも、『アーティストです』なんて、普通の人からしたら『はっ?何者や、お前』ってなるやんな。
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あー、やばっ、どうしよ。
頭の中をそんな思いがぐるぐるして、めまいがする。
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ふっと目をやったのは、キャビネットの上に飾られた沢山の写真。
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「かわい」
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そこにあるのは、赤ちゃんの頃からの茜さんの写真。
ほんま、何枚あるん?っていう位。
写真の右下が9月6日の写真が多くて。
誕生日に毎年撮ってるって事…。
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そこに写る茜さんがほんま可愛らしく笑ってて。
きっとこれを撮ったお父さんも、笑ってたんやろなってわかる。
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『娘がかわいい』それがしっかり伝わってくる。
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「あっ、帰ってきた」

レースのカーテンの向こうに人影が見えると、玄関の開く音がして。
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一気に緊張度が増す。
静かに開いたリビングのドアの向こうには、背の高い細身のお父さん。
俺と一瞬目を合わすと、すっと外した。
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「茜…、これたくさん釣れたから、帰りに持って帰って。刺身にしとくから」
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「えっ…ん。あのねっ、お父さん。今日」
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「ん、ちょっと待って。着替えてくる」
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そう言って階段を上がると、5分位で降りてきたお父さんは、しっかりスーツを着てて。
ほんと、いい会社に勤めてるってその感じは俺でもわかる位やった。
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「初めまして。茜の父です」
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俺なんかに、丁寧に頭をさげてくれる。
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「あっ…あの。初めまして。川村壱馬です。ご挨拶が遅くなってすみませんでした」
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「茜…何もできないでしょ? 家事なんてさせた事なかったから。困ってない?」
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「いやっ、あのっ…。大丈夫です」
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もう、どう返事していいかわからんくて。
『大丈夫です』は違ったなーって更にパニックになる。
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そんな俺とお父さんと見て助けてくれたのはお母さんで。
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「ほら、こっちでじゃあご飯。茜…ビール?ハイボール?」
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「最初はビール。お母さんも飲む? グラス4つでいい?」
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「もちろん、飲むでしょ!グラスね…大きいの洗ってるからそっち出して」
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『お昼ご飯を一緒に』とは聞いてたけど、お茶やないんか。
茜さんのご両親やもんな…、まぁそうか…って納得はすぐにいったけど。
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ビールを飲むにはだいぶ大き目のグラスが目の前に並べられて。
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向かいに座るお父さんが俺に『はい、壱馬くん』って瓶を持ち上げてくれる。
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何か、その感じが俺を受け入れてくれるんやなって
ほっとした。
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…でも俺とは視線を合わせてくれんくて。
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そんな簡単ではないよな…って。
当たり前か…。
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…next
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