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still…〜scene35〜
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.「こんにちは」
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呼び鈴もないそのドアを開けて、声をかけると、 「茜ちゃん?おかえり」ってスリッパをパタパタ言わせて走ってくる音。
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「あっ、おかえり」
あの頃と変わらない。
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『おかえり』ってお日様みたいな笑顔で迎えてくれるおばちゃん。
その笑顔に張り詰めてた気持ちが、プソンって音をたてて切れた。
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急にここに来てる…それだけでおばちゃんに十分心配かけてる…それがわかるのに、涙は止まらなくて…。
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「おばちゃん…」
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「ん?」
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「私…、ごめんなさい。急に。あのっ…えっと…。あのねっ?」
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何をどこから説明していいかなんてわかんなくて、小柄なおばちゃんの胸に飛び込んだ。
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「どしたの?…ん?
こんな痩せちゃって。ちゃんとご飯食べてるの?」
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「ん…、ん」
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背中を擦ってくれるその手が優しくて暖かくて。
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「行くとこなくて…。どこに行けばいいのかわかんなくて…おばちゃん、ごめんね?…ごめんなさい」
そんな言葉でしか伝えられなかった。
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「何がごめんなの?私は嬉しいよ?茜ちゃんが私を頼ってきてくれたの、嬉しいに決まってるじゃない。
ここに居ればいいの、ね?茜ちゃんなら、大歓迎よ」
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「…ん」
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「お父さん、茜ちゃんの荷物、部屋に運んであげて?」
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「ん、了解」
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おばちゃんの後ろから、静かに現れたおじちゃんは、私のスーツケースを持ち上げると何も聞かずに「おかえり、茜ちゃん。ゆっくりしてきな」って笑ってくれた。
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二人の優しい言葉に、体全体に入ってた力が一気に抜けてく。
もう、立ってる事すらままならなくて、おばちゃんに支えてもらって、リビングのソファに体を預けた。
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「急いで何も言わなくていいから。話したくなったら聞くね。
とりあえず、今はゆっくり休む事。お酒はちょっとお休みして、ちゃんとご飯食べよ。
茜ちゃんが好きだって言ってたのいっぱい作ったから」
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「…ん」
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お母さんみたいな、おばちゃんのその言葉に、胸がいっぱいになって。
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テーブルに並ぶ料理…私が好きだった料理をちゃんと覚えてくれてて。
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「一口だけだよ」
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おじちゃんが、こっそりグラスの下3分の一に注いでくれたビール。
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「おかえり、茜ちゃん」ってグラスを合わせてくれた。
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そっと口に入れた、おばちゃんが作ってくれたきびなごの南蛮漬け。
『得意料理なの、栄養たっぷり』そう言って私と壱馬くんにたくさん作ってくれたっけ。
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「おいしい…」

「そう?よかった」
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それだけを言うと、「明日の朝ごはんの準備しようかな」って、キッチンへと戻ってく。
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おばちゃんが「ふふん」って鼻歌を歌いながらお米を洗ってて、おじちゃんがリビングのソファで、釣り竿の手入れをしてて。
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その空間。
特に何が…ではないのに、安心感が胸の中いっぱいに広がる。
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誰かに見張られてるみたいでずっと怯えてた …怖かった…。
本当は、そうだったから。
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「茜ちゃん?」
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ご飯を食べた後、「はい、お茶」ってカタンって置かれたカップが二つ。 おばちゃんが私の目の前にゆっくりと座った。
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「私ね?おせっかいなのはわかってて、茜ちゃんがここに来る事、壱馬くんに連絡したの」
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「えっ…」
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「茜ちゃん、壱馬くんに何も言わずに来ちゃったような気がしたから。心配するだろなって思って。
だから『茜ちゃんはここでしばらく預かるから、何も心配いらないよ』ってそう連絡したの。勝手な事してごめんね?」
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「んーん、大丈夫。ありがと。…壱馬くんは?何か言って…」
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「お願いしますって。ちゃんとごはん食べるように言うて下さいって」
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「ん…」

「ほら、疲れたでしょ?それ飲んだら、今日はゆっくり寝よ。ね?」

「…ん」
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『壱馬くんに心配をかける』それがわからないわけじゃなかった。
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でも、今この状況を説明するには、昨日の事を話さないといけなくて。
きっと、それを聞いたら壱馬くんは、『自分のせい』ってそうなる。
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そう思ったら絶対言えなかった。
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上手くウソもつけそうもなくて、『また連絡する』ってだけLINEをしてスマホの電源は落とした。
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2階への階段を上がったとこ。
誰もいない静かな空間。
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『茜さん、おはよ』
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そう言って眼鏡姿で、ペタペタ私の前を通りすぎて階段を降りてく壱馬くんがいるみたいで。
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時間はそんな経ってないのに、何かもう随分と昔の感覚。
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手前の用意してもらった自分の部屋に入ると、キレイに整えられたべット。
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窓から見える月は、冬独特の輪郭のはっきりとして、凛としてるそんな月。
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「冬もいいな」
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それでも、東京よりは全然暖かくて。
窓を開けると、波の音が、静かに聞こえる。
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スマホの電源切っちゃって、絶対怒ってるだろうな。
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ごめんね、壱馬くん。
ちょっと今は、何も考えられない…。


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…next
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