1、 はじめに
 この論文では芥川龍之介『歯車』を論じる。『歯車』では主人公の「僕」が同時に「語り手」となる一人称の小説であり、さまざまな言葉が連想ゲームのように一見バラバラな関連しあいながら語られていく。先行研究において『歯車』の中の言葉は様々に解釈されてきた。今回は先述した二つの問いを考える際に、「僕」の言葉の結びつきの法則性に「メトニミー」(=換喩)的側面と「メタファー」(=隠喩)的側面があるとし考察していく。

2、 ヤコブソンの「換喩」と「隠喩」
 『歯車』における「言葉」を分析する際に、まず確認しておきたいことは正常な言語の使用があるとすればそれはいったいどのようにして行われるのか、ということである。これについてヤコブソンは次の六つの機能について述べている(注1)。

  言語は、その多様な機能すべてにわたって研究されねばならない。これらの機能の概略を知る  ためには、あらゆる言語事象、あらゆる言語的伝達における構成因子をひとわたり略述してお  く必要がある。〈送り手〉(addressser)が〈受け手〉(addressee)に対して〈メッ   セージ〉(message)を送る。充分に機能するためには、ことばは、言及される〈場面〉    (context)、――別の、いささか曖昧な用語でいえば、「指示対象」referent――受け手が  把捉することのできる、言語的もしくは言語化されうる場面を必要としている。さらに欠かす  ことのできないのは、送り手と受け手(別のことばでいえばことばの発信者と受信者)に完全  に、もしくは部分的に共通した〈コード〉(code)と、そして最後に〈接触〉        (contact)、送り手と受け手の双方が、伝達をはじめ、続けることを可能とさせる、両者間  の物理的線路と心理的なつながりである。

 これを小説にあてはめてみれば、〈送り手〉は「作者」あるいは「語り手」であり、〈受信者〉は「読者」であり、〈メッセージ〉は小説の「本文」であろう。さらに『歯車』の本文においては、主人公の出会う様々な「出来事」や「事物」という「送り手」から「語り手」の「僕」への「メッセージ」を「僕」が解読していくという図式でもある。もちろん、『歯車』の研究史においては『歯車』の〈メッセージ〉の解釈をめぐり〈場面〉と〈コード〉が問題にされてきた。本論考ではこの〈場面〉と〈コード〉がどういったものかについても明らかにしたい。
 くわえて、ヤコブソン(注2)は「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」(注3)において「隠喩」と「換喩」について次のように述べている。

  失語症性障害のすべての形式が、選択と代置の能力か、あるいは結合と結構の能力かの、多少  ともひどい損傷に存する。前者はメタ言語的操作の退化を来たし、後者は言語単位の階層を維  持する能力を損なう。相似性の関係が前者の、隣接性の関係が後者の型の失語症で抑止され   る。隠喩は相似性の異常と、換喩は隣接性の異常と相容れない。(傍点、森尻)

 つまり、「隠喩」には言葉と言葉の間に「相似性」を発見すること、一方「換喩」には言葉と言葉の間に「隣接性」を発見することが必要なのである。ちなみに「換喩」は英語で「メトニミー(metonymy)」、「隠喩」は「メタファー(metaphor)」である。
 そして、『歯車』において、物と物や出来事と出来事とを結びつける「僕」の「語り」にはこのふたつの方向があるのである。本論考では、このふたつの方向を「メトニミー」的思考と「メタファー」的思考と呼ぶことにする。そして『歯車』の「僕」は我々の日常生活ではただの「偶然」としてしまう物事同士の関連性を見逃さない。ある種、そういった関連性の「妄想」や「捏造」を行おうとする。

3、 「メトニミー」(=換喩)的思考
 まず字義通りの「メトニミー」について確認する。野内良三氏によれば、「メトニミー」が成立するための「隣接性」は「空間的なものに限定すべきではなく、時間的なもの(継起性)も観念的なもの(有縁性=百科事典的知識)」も含んでいて、「むしろ隣接性というよりは「連結性」と呼んだ方が誤解を避けられるかもしれない」と述べている(注4)。野内氏は「メトニミー」の分類について「①全体―部分②入れ物―中身③産地―産物[主題―場所]④原因―結果[前件―後件]⑤主体―属性⑥作者―作品[能動―所動]⑦所有者―物[主体―物]」などを挙げている。
 『歯車』に話を戻すが、蓮実重彦氏は「あらゆる文章がかかえこんでいる諸々の説話論的な拘束が、語られていることがらと語っている言葉との必然的な偏差を話者に体験させざるをえないということ(中略)物語は省略によって初めて可能になるのだし、まさしく虚構を始動せしめるものはその省略のための取捨選択にほかならない」と指摘する(注5)。そして、『歯車』を「説話論」的に読み解いてみせた。氏の読解に特徴的なのは『歯車』に登場する言葉が「対立関係」をはらむということである。蓮実氏の論文の指摘した「対立関係」をまとめると次のようになる。

(一)「幽霊が昼間でも姿を見せる」→「昼/夜」(「純粋に対立的な価値」)
(二)「晴/雨」(「純粋に対立的な価値」)
(三)「自動車/列車」(「時間的な継続関係」)
(四)「避暑地/首都」(「距離を導入するもの、出発と帰還という主題を支える」)
  →「物語の冒頭から「接続詞」的とも呼ぶべき風土を物語に導入する。それは、付加的であり   並置的であり二者択一的であり同時に両価的でもある世界だということになろう。」
(五)「レエン・コオト」→「狂気/正常」(「僕」は「無気味」に感じる)
(六)「右目に映り、左目に映らない歯車」→「右/左」(右目と左目との二者択一)
  →「右/左という均衡が崩れ、その二項対立に変調が生じたときに姿を見せるのが歯車である   と知らされた読者は、披露宴の席を辞して予約しておいた部屋にとじこもった「僕」が、鏡   台に自分の顔を映してみるという光景に立ち合う。そこには、たちまち、自分自身とその反   映というナルシス的な二重性の主題が浮き上ってくる」
(七)「神経/良心」→「良心も持ち神経も持つという調和ある並置関係は否定され、執拗な二者   択一によってもっぱら神経のみが選ばれてしまっている」
(八)「神/悪魔」→「対立関係は二者択一によって傾き続けるほかはない」
  →「「接続詞」的な妄想を文体の条件として、その中で、選択強迫そのものを言葉に綴るとい   うのがその一貫した姿勢となるだろう。」

 蓮実氏の指摘は「メトニミー」的思考と重なるところがある。それは事物同士を「隣接性」によって結び付けていくプロセスという点である。蓮実氏の指摘は「読者」が『歯車』の本文を読み解く際に行うことである。『歯車』の中の「僕」はどういった「メトニミー」的思考を行うのであろうか。「僕」はある出来事と出来事とを単なる「偶然」として受け止めることができない。たとえば、『歯車』の次の文章を引用する。

  僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはひつて行つた。すると果して上り列車は二三分前  に出たばかりだつた。
  汽車の中は可也こみ合つてゐた。しかも僕の前後にゐるのは大磯かどこかへ遠足に行つたらし  い小学校の女生徒ばかりだつた。(傍点、引用者)(一 レエン・コオト)

 そして次にこの文章についての石割透氏の指摘を引用する(注6)。

 前者の場合、〈僕〉は確かに列車に乗り遅れることを懸念しているとは言え、その前後の表現を「すると果して」で結合しなければならない必然性は、〈僕〉における他者である読者には、文脈の中で直接に見出すことができない。後者の「しかも」も同様で、「しかも」たり得る必然を感じとっているのは〈僕〉だけだ、と言えるのだが、肝心の〈僕〉は「すると果して」や「しかも」で結わえることが如何にして可能なのか、という論理的な意味づけをそこに欠いているのである。

 ここにおいて問題なのはこの文章に対する石割氏の姿勢である。我々「語り手」を除くすべての人間の日常生活においてはこの「必然性」は認めづらいのかもしれない。しかしここで問題にすべきは前者と後者の出来事同士はそれぞれ時間的「隣接性」においては結びついている。これこそ「僕」の「メトニミー」的思考と呼ぶべき行為であろう。「僕」にとってはそれこそが問題で、石割氏のいう「論理的意味づけ」は欠いたままではあるが、「僕」にとってはそれが自然だという風に書かれているのではないか。他にも「僕」が「メトニミー」的思考が脅迫観念のように迫っていることが分かる箇所がある。次の『歯車』からの引用を見てみる。

  彼等の話し声はちよつと僕の耳をかすめて行つた。それは何とか言はれたのに答へた All   right と云ふ英語だつた。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に摑ま  うとあせつてゐた。「オオル・ライト」?「オオル・ライト」?何が一体オオル・ライトなの  であらう?(一 レエン・コオト)(傍点、森尻)

 この「オオル・ライト」という言葉を本来の文脈に位置付けるのであれば、この言葉を発した当の本人たちの会話に入るしかないわけだが、この「オオル・ライト」という言葉は「僕」の中で空回りする。そして自分の文脈を作り出そうと「あせ」る。

4、 「メタファー」(=隠喩)的脅迫
 「メタファー」の成立のためには、あるふたつのものの間に「相似性(=類似性)」が発見されなければならない。『歯車』において「僕」の言葉はいかなる「メタファー」として解釈されてきたか。
 先ほど論じた「オオル・ライト」の例のように『歯車』において「僕」が出会う言葉は本来の文脈から離れていることが多い。清水康次氏は次のように述べている(注7)。

  「地玉子、オムレツ」、「レエン・コオトを着た幽霊」、「オオル・ライト」。『歯車』の印  象的なことばは、いずれの場合にも、本来の領域や帰属する場所を見失っているが、この場合  さらに重要なのは、「僕」が、見失った本来の場所を、自分の中で再構築しようと、「あせ」  る姿である。

 ことばが、もともとの領域や文脈から引き離されて、別の新たな領域や文脈を与えられることを変容のモチーフと呼んでおきたい。『歯車』の多くのことばが、変容のモチーフを奏でる。領域の曖昧な、境界の混乱した、アンバランスなことばの組み合わせは、いわば変容のモチーフの動き出す準備である。

  「メタファー」が成立するためにはその当の語と語、あるいは出来事と出来事との「相似性」  を「読者」である我々にも認められる必要がある。しかし『歯車』では「僕」の行う「メタ   ファー」的思考においてはその法則性は我々「読者」の日常的な感覚とはずれている。そのた  めに「読者」にとっては「領域の曖昧な、境界の混乱した、アンバランスなことば」が並んで  いるように感じられる。しかしその「僕」のしている行為こそが『歯車』の〈メッセージ〉を  解読する上での〈コード〉を与えているとは考えられないだろうか。

  冬の日の当つたアスファルトの上には紙屑が幾つもころがつてゐた。それ等の紙屑は光の加減  か、いづれも薔薇の花にそつくりだつた。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはひつ  て行つた。(四 まだ?)

 ここで見逃せないのは、この「メタファー」的思考の結果がさまざまに「僕」の感情に影響を与えていることである。我々「読者」にとっては「紙屑」と「薔薇の花」との間に何らの「相似性」も見出せそうにないが、「僕」にとってはそういった「相似性」によって「薔薇の花」のイメージがわき「好意」を感じることができるのである。しかしその結びつきは弱く簡単に移ろっていくものなのである。次の『歯車』本文からの引用を見てみる。

  アスファルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のやうにも見えないことはなかつた。する  と向うから断髪にした女が一人通りかかつた。彼女は遠目には美しかつた。けれども目の前へ  来たのを見ると、小皺のある上に醜い顔をしてゐた。のみならず妊娠してゐるらしかつた。僕  は思はず顔をそむけ、広い横町を曲つて行つた。(四 まだ?)(傍点、森尻)

 ここでは「紙屑」が「人間の顔」というイメージを「僕」に喚起することになった。その「人間の顔」には、「醜い顔」のイメージが付け加えられる。そして「3」でも扱った「メトニミー」的思考が行われていることが分かる。しかし、「僕」は自分自身に対して「メタファー」的思考をすることには恐怖を抱く。たとえば次のようにである。

  僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚の中へ抛りこ  んだ。それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に自分の顔を映した。鏡に映った僕の顔は皮膚の下  の骨組みを露わしていた。蛆はこういう僕の記憶にたちまちはっきり浮びだした。(一 レエ  ン・コオト)

『歯車』における「色」について、小早川久美子氏は「薔薇色は平和をもたらす愉快な色、青にも青空の自然の色を見たり、薔薇色との調和から愉快な色とされる」(注8)と述べている。「薔薇」の「色」は「赤」であるが、この「赤」は「僕」にとっては良いものにも悪いものにも備わった「色」である。それは良いものとしては「薔薇」であり、悪いものとしては「地獄の炎」「火事」である。「僕」にとって「火事」は「不吉なもの」であった。
 ここで、『歯車』における「色」と「僕」の「心」への影響について考察したい。特に「緑」と「黄」についてみる。くわえて、『歯車』の中で重要な役割を持ち、何度も「僕」に思い出される「松林」との関わりについても言及する。
 まず『歯車』の冒頭を見てみる。

  僕はある知り人の結婚披露式につらなるために鞄を一つ下げたまま、東海道のある停車場へそ  の奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がわは大抵松ばかり茂っていた。   (一 レエン・コオト)(傍点 森尻)

 ここで「僕」は「結婚披露式」へ向かっていることが分かる。つぎに、ある「首都」を歩く「僕」について引用する。

  僕は省線電車のある停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、あるホテルへ歩いて行った。往来  の両側に立っているのは大抵大きいビルディングだった。僕はそこを歩いているうちにふと松  林を思い出した。(一 レエン・コオト)(傍点 森尻)

 ここでは「ビルディング」と「松林」の間の形象的な「相似性」が発見され「思い出」すという行為において結ばれる。注目すべきは「松」の葉は「緑」色をしている。しかし「思い出し」たのちに「不吉なもの」である「歯車」が登場する。
つぎに、「緑」の「僕」の「心」に与える影響について考える。

  するとロッビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、背の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に鮮や  かに映っていた。それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。(一 レエン・コオ   ト)

  しかし向うのロッビイの隅には亜米利加人らしい女が一人何か本を読みつづけた。彼女の着て  いるのは遠目に見ても緑いろのドレッスに違いなかった。僕は何か救われたのを感じ、じっと  夜のあけるのを待つことにした。(三 夜)

「緑」は「僕」の「心」に「平和な感じ」や「救い」を与えていることが分かる。では、「黄」はどうであろうか。いくつか本文から引用する。

  のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交  通事故の面倒をかけるのを常としていた)そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、と  にかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。(二 復讐)(傍点 森尻)

  僕はこの本屋の店へはいり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。それから「希臘神話」とい  う一冊の本へ目を通すことにした。黄いろい表紙をした。「希臘神話」は子供のために書かれ  たものらしかった。けれども偶然僕の読んだ一行はたちまち僕を打ちのめした。(二 復讐)

  僕は丸善の二階の書棚にストリンドベルグの「伝説」を見つけ、二、三頁ずつ目を通した。そ  れは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた。   (三 夜)

 このように『歯車』の中では「黄」はかならず「不吉なもの」と結びついていて、「緑」と「黄」は「対立関係」をなす。しかし、「緑」にしても「黄」にしても我々「読者」にとってこの結びつきは一般的なものではない。結び付ける主体は「僕」にほかならない。そしてさきほども登場した「思い出」すという行為はさらなる連想(「メタファー」的思考)を行う。次の引用を見てみる。

  僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い  出した。それは郊外にある僕の養父母の家ではない、ただ僕を中心にした家族のために借りた  家だった。(三 夜)

「僕」にとっての「家」を論じた研究者に石崎等氏がいるが氏の論文には次のようにある。

  芥川が『歯車』において描いた松林のある風景は、もっと荒涼とした精神的自画像の背景であ  り、最も日本的な〈家〉霊というべきものなのである。ある場合には、疲弊した心身にとって  「郷愁に近いもの」であると同時に、「僕を束縛してしまう或力」となる恐るべきものであ   り、それゆえ芸術的活動に打ち込んでいる「僕」はたえず「戦闘的精神」を呼び起こして自己  を鞭打たざるを得ないのであろう。

『歯車』において「僕」はさまざまなものを見る際に記憶の中から「僕」にとって「相似性」のあるものを思い出さずにはいられない。そしてほぼかならず「メタファー」的思考が脅迫的に「僕」の心性に影響を与えるということである。「僕」は「不吉なもの」を避け自分に「平和」をもたらすものを求める。「家」は「不吉なもの」「恐るべきもの」であり、「眠り」は「平和」をもたらすものであった。しかし、『歯車』の物語の進行とともに破綻をきたす。次を見てみる。

  僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じだした。歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖  やしていった。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、〇・八グラムの   ヴェロナアルを嚥み、とにかくぐっすり眠ることにした。
  けれども僕は夢の中にあるプウルを眺めていた。そこにはまた男女の子供たちが何人も泳いだ  りもぐったりしていた。僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行った。すると誰か後ろ  から「おとうさん」と僕に声をかけた。僕はちょっとふり返り、プウルの前に立った妻を見つ  けた。同時にまた烈しい後悔を感じた。(三 夜)

「平和」をもたらすはずの「眠り」の中にまで「不吉な」夢が現れる。物語の進行とともに「僕」の精神は「平和」を保てなくなりつつある。そして注目すべきは「僕」の「メタファー」的思考が「平和」=「生」を求めることをやめて、「不吉なもの」=「死」へと向かっていくということである。次の引用を見てみる。

  モオルは鼴鼠という英語だった。この聯想も僕には愉快ではなかった。が、僕は二、三秒の   後、Moleをla mortに綴り直した。(四 まだ?)

  la mortはまさに「死」という意味である。物語は後半に進むにしたがって「僕」が出会う出  来事や事物を「死」に読み換えていくことになる。次の引用を見る。

  のみならず彼の勧めた林檎はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現していた。(僕は木目や  珈琲茶碗の亀裂に度たび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟に違いなかった。僕はある  敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟児」と呼んだのを思い出し、この十字架のかかっ  た屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。(五 赤光)

「僕」は尊敬する「屋根裏の隠者」に会うという「読者」にとって「僕」に「平和」をもたらすであろう「場面」においても「不吉なもの」を読みとらないわけにはいかない。そして「僕」の「聯想(「メタファー」的思考)」は「死」というイメージに向かっていく。次の引用を見る。

  ある店の軒に吊った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼の  ある商標を描いたものだった。(五 赤光)

 そこから「僕」は「人工の翼を手よりにした古代の希臘人」を「思い出」す。しかし、その「希臘人」は「溺死」するというイメージまでも「聯想」してしまう。ここで見られる「対立関係」は「飛翔/墜落」、「逃避/復讐」、あるいは「タイアア(=黒)/白い看板」であろうか。この「翼」を始点とする「聯想」はやまない。次の引用を見る。

  「巻煙草」に火を移そうとするが、なぜかエエア・シップだった(いつもスタアばかり吸うよ  うにしていたはずだが)」(五 赤光)

 そしてその後に「僕」は「人工の翼」を再び「聯想」する。「僕」は「エエア・シップ」だけしか売っていないにもかかわらず、「頭を振っ」て買うことを選ばない。いまだ「生」と「死」というふたつの思考の方向付けの間で止まっている。しかし、「五 赤光」の最後において物語における「僕」の「メタファー」的思考の方向付けは決定される。次の引用を見る。

  僕はちょうど戸の前に佇み、誰もいない部屋の中を眺めまわした。すると、向うの窓硝子は斑  らに外気に曇った上に小さい風景を現していた。それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に  違いなかった。僕は怯ず怯ず窓の前に近づき、この風景を造っているものは実は庭の枯芝や池  だったことを発見した。けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起し  ていた。
  僕は九時にでもなり次第、ある雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰  る決心をした。机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。(五 赤光)

 ここに「緑」であったはずの「松林」が「僕」の「錯覚」によって「家に対する郷愁」を呼び起こしたのである。「不吉なもの」「恐ろしいもの」であった「家」へ帰る決心をしたのである。さらにその箇所の前において次のような個所がある。

  が、絶望的な勇気を生じ、珈琲を持って来てもらった上、死にもの狂いにペンを動かすことに  した。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上っていった。僕はこの小説を超自然  の動物に満たしていた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。(五 赤  光)

 ここにおいてわかることは自らが「不吉なもの」としていた「超自然の動物」に自らの分身を見たことである。このようにして「僕」は「不吉なもの」そのものになったのである。

5、 「死」への妄想と受容
「六 飛行機」の冒頭と「一 レエン・コオト」の冒頭との類似は数多く指摘されている。しかし、「六 飛行機」において「僕」の「感受性」は大きく違ってしまっている。そこに見出されるのは「メタファー」的思考が「死」へと方向づけられて、「死」を受け入れる「僕」の姿である。その「六 飛行機」の冒頭を見てみる。

  僕は東海道線のある停車場からその奥のある避暑地へ自動車を飛ばした。運転手はなぜかこの  寒さに古いレエン・コオトをひっかけていた。僕はこの暗合を無気味に思い、努めて彼を見な  いように窓の外へ目をやることにした。すると、低い松の生えた向うに、――恐らくは古い街道  に葬式が一列通るのをみつけた。(六 飛行機)(傍点 森尻)

「一 レエン・コオト」の冒頭での「結婚披露式」に対して「六 飛行機」では「葬式」という言葉が登場する。そして次の引用を見てみる。

  道ばたには針金の柵の中にかすかに虹の色を帯びた硝子の鉢が一つ捨ててあった。この鉢はま  た底のまわりに翼らしい模様を浮き上らせていた。そこへ松の梢から雀が何羽も舞い下って来  た。が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言い合せたように一度に空中へ逃げのぼって   行った。……(六 飛行機)

「五 赤光」まで読んだ「読者」にはもはや意味を読みとる〈コード〉は明白であろう。先述したように、ここに見られる「飛翔」のイメージから「死」を読みとることになろう。次の引用を見る。

  そこへ僕らを驚かしたのは、烈しい飛行機の響きだった。僕は思わず空を見上げ、松の梢に触  れないばかりに舞い上った飛行機を発見した。それは翼を黄いろに塗った、珍しい単葉の飛行  機だった。(六 飛行機)(傍点 森尻)

 ここにおいても「飛行機」は「翼」や「飛翔」のイメージを伴って、「死」を暗示する。そして「僕」は自問自答する。次の引用を見てみる。

  なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通ったのであろう?なぜまたあのホテルは巻煙  草のエアア・シップばかり売っていたのであろう?僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気のない  道を選って歩いて行った。(六 飛行機)(傍点、森尻)

 この疑問はいかなるものか。ここまで見てきたように、「僕」の行ってきた「メトニミー」的思考と「メタファー」的思考は「偶然」を「必然」に読みかえるといった意味を偽装する行為であった。しかし脅迫的に作られたものであれ、「読者」には「僕」の言葉を解読していく〈コード〉が手に入ったのである。

  そこへ誰か梯子段を慌ただしく昇って来たかと思うと、すぐにまたばたばた駈け下りて行っ   た。(六 飛行機)

 この行為の「飛翔」というイメージを喚起させる行動をとったのは他でもない「僕」の妻である。『歯車』の最後においては次の妻の言葉によって彩られる。

  「どうもした訳ではないのですけれどもね、ただ何だかお父さんが死んでしまいそうな気がし  たものですから。……」

 そして「僕」は次のように語って、物語は終わる。

  それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。――僕はもうこの先を書きつづける力を持っ  ていない。こういう気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っ  ているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

 この『歯車』という小説は「僕」が「死」を受け入れるまでを描いた物語であった。

6、 おわりに
 渡部直己氏は本文中の「worm」について次のように述べている(注8)。

  だが、芥川の真の理知は、その「歯車」の一種が、英語ではまさに「蛆」と呼ばれる事実を見  逃してはいないのだ。
  すなわち、縦回転と横回転を繋ぎあわせる〈Worm〉。正確には、縦回転を伝える上部が    worm、その横回転を横ざまに受け移す下部がworm wheelと名指される、二つでひとつの   「歯車」(Worm gear)。呼称はむろん、上部の形状とその虫との類似に由来してはいる。  が、その隠喩じたいを導いているのは、上部と下部とをじかに隣接させる機械構造なのだ。  
 つまり、以上述べたように「メトニミー」的思考と「メタファー」的思考の両面が合わさって物語が展開することにより「僕」はその「死」への「妄想」を完成させることになったのである。

(注)
(1)R.ヤコブソン『言語とメタ言語』勁草書房、一九八四年五月。
(2)出版社によって表記は違うが同一人物であり、論文中では「ヤコブソン」と表記は統一する。注の(2)(3)は同じ人物である。
(3)ロマーン・ヤーコブソン『一般言語学』みすず書房、一九七三年三月。
(4)野内良三『レトリックと認識』日本放送出版協会、二〇〇〇年八月。
(5)蓮實重彦「接続詩的世界の破綻――芥川龍之介『歯車』を読む―― ――説話論の視点から――」『國文学―解釈と教材の研究―』、學燈社、一九八五年五月
(6)石割透「『歯車』を読む」『作品論 芥川龍之介』、双文社出版、一九九〇年一二月。
(7)清水康次「『歯車』のことば」『芥川文学の方法と世界』、和泉書院、一九九四年四月。
(8)小早川久美子「芥川龍之介『歯車』における色彩感」『金城学院大学大学院論文集』金城学院大学大学院文学研究科、一九九六年三月。
(9)渡部直己「日本小説技術史(第七回) 妄想のメカニズム――芥川龍之介と競作者たち」『新潮(第百七巻第十二号)』新潮社、二〇一〇年一二月

※芥川龍之介『歯車』は集英社文庫版(一九九二年九月)を底本とした。