伊藤剛『テヅカイズデッド』の論点 レジュメ

1、 はじめに
 この本は「日本のマンガをめぐる言説は、「マンガの現在」を語り得ていない」と書き始められている。およそ一九九〇年から二〇〇五年にかけての約一五年間のマンガを「あたかもマンガ史「以後」の空白に置かれているよう」に伊藤氏は見ている。「歴史の空白」に見える事態は、「マンガ表現史」それ自体の不在を意味している、と。この本の関心はマンガ表現そのものの解析と、そのためのモデルの構築に向かっている。その結果として、伊藤氏は手塚治虫を「起源」とすることで成立した「戦後まんが」という枠組みそれ自体が、表現史を書かせなくしているという構造を指摘している。
 レジュメ作成者としては、今回のレジュメ作成に対し「マンガ」を語る枠組みを本書がいかに設定しているかを明らかにしようと考えている。「マンガ批評」史における「テクスト論」の時代の到来と言えるのではないかと考えている。佐々木敦『ニッポンの思想』で東浩紀氏をゼロ年代以降の思想というゲームのルール「再設定」者ととらえているように、いかに「マンガ」を語るゲームのルールを「再設定」しているかあきらかにしたい。

2、 マンガ言説の現状
一、 マンガ言説の現状について
まず、マンガの現在を知るために伊藤氏は以下の文章を引用している。

  読者のニーズに合わせて、世代、性別、嗜好などによって雑誌が細分化していったことが刊行  点数を増加させたが、結果として購買力を低下させることにもなったようだ。二〇〇〇年に   入って雑誌や単行本の部数は軒並みダウンし、ここ一年、ブームを呼んだジャンルも大ヒット  作も生まれなくなっている。(中略)
  時代とわたりあうメディアとしてのマンガ誌と、時代を超えて読み返されるような作品をつく  りだしていかなければ、マンガは衰退していくことになるだろう。二一世紀を前に、マンガは  難しいところにきているようである。(「二一世紀への視点 マンガ文化のグローバル化とマ  ンガ産業の停滞」、米沢嘉博『現代用語の基礎知識』二〇〇一年版、自由国民社)

 しかしこの文章のすぐあとにくる『ワンピース』を米沢嘉博氏(日本マンガ学会理事)が扱った文章を見る。

  『少年ジャンプ』連載中の尾田栄一郎による海洋冒険少年マンガ。(中略)ストレートな楽し  さがじわじわと人気をつかみ、TVアニメ化、劇場アニメ化もあって大ヒットとなった。(同)

 もちろん、ごく少数のメガヒット作があり、残りは低調だという議論ならば単に事実であるだけだが、米沢氏は「ヒット作は生まれなくなっている」と断言している。米沢氏は同様に、『現代用語の基礎知識』において、九五年から二〇〇一年までの七年間にわたり、各年のトピックとして「マンガの衰退」を記し続けてきた。これはいったいなぜかと伊藤氏は問う。

  八〇年代後半以降、日本のマンガという表現ジャンルは、たいへん不透明な、見通しにくいも  のとしてあった、そのことがはっきり現れているのが、先の米沢氏の文章に代表されるような  「マンガは衰退した」あるいは「つまらなくなった」という言説群である、と伊藤氏は考え   る。マンガの刊行点数があまりに多くなり、またジャンルの幅が広がったことによって、ひと  りの読者が全体を見通すことができなくなったということは、前提条件として批評家たちに共  有されていた。だから「つまらなくなった」と語られると伊藤氏は続ける。
  また、こうした言説に特徴的なのは、「何が」「どう」つまらなくなったのか、という記述が  なされないままに、その状況論的な理由づけが同時に語られるという点である。「ひとりの読  者が全体を見通すことができなくなった」ということが、マンガをめぐる「問題」として語ら  れることに注意しなければならない。このように語られるのは、ひとりの読者が全体を見通し  うる状況が「望ましい」という前提によるものだ。つまり、「なぜ、ある誰かにとって、全体  を見通すことのできる状況が望ましいと思われるのか?」という問いであり、そしてこの問い  は「なぜ、多種多様なマンガ作品が数多く作られる状況が望ましくないものとされるのか?」  という問いへと転化されうる。この問いは、現在のマンガをめぐる「語り」―とりわけ「評   論」と呼ばれる言葉―が、現状をまったく肯定できず、現実に対して機能不全をおこしている  という現実をつきつける。

 伊藤氏はウェブ上のブログなどで個々の論者がそれぞれの趣味嗜好に合わせ、豊かに多様な「語り」を展開しているとしながらも、個々の趣味嗜好の中で完結しがちであるし、わずかな趣味の差異やディスコミュニケーションに起因する不毛な衝突も起こっているとしている。しかし、こうも言っている。そうした多様さを認め、その複数性を肯定したまま、「マンガ」という表現ジャンルについて考察することは可能ではないか、と。
 伊藤氏は本書で、マンガ作品が「何を」描いているかではなく「どう」描いているのかをみていくという手法をとっている。伊藤氏は「少女マンガ」や「ファミリー四コマ」などへの知識のなさを認め、呉智英『現代マンガの全体像』というような考え方はしていない。

二、 「読み」の多様さとシステム論的分析の必要性
 『週刊少年ジャンプ』の『ワンピース』を例にとれば、その作品の享受の仕方にも多様性はもちろん存在する。それは「ストーリー」や「キャラクター」、「絵」などと享受する単位が分離している。しかしどれも「マンガ的な快楽」である。そして実際のところ、それぞれが同じ読者の一回の「読み」の中でも複数のレヴェルの快楽が同時に駆動していると考えたほうが合理的である。
 本書は「マンガ」をひとつの表現システムととらえる。

3、 「物語」の終焉 ―いがらしみきお『ぼのぼの』―
 マンガ批評誌『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと)の特集「マンガは終わったか?」(一九九五年七月号)は、「つまらなくなった」言説の総決算であったと伊藤氏はしている。しかし同時にそのタイトルとは裏腹に、七〇年代からつづいた「まんが評論」のある部分の終焉をはっきりと強く示すものだった。この事態は、マンガにかかわる論者たちが一九五〇年代生まれであることからくる世代的な限界が大きな要因としてあった。その中で、「まんが評論」の分析的な方法や枠組みは夏目房之介や大塚英志、四方田犬彦らを除けば排除されてきた。その排除をおこなったもっとも大きなものは、七〇年代以降の「ぼくら語り」と伊藤氏が呼ぶものがある。これは「まんが読者」である「ぼくら」の想像的連帯を基盤とし、マンガを読む「ぼくら」は等しく共同性・一体性を持つという前提を担保にした言説のことである。この運動はそれまでのマンガ評論へのカウンターとして、マンガを「外部」の言説から「ぼくら」という当事者のもとに取り返すという動きとして始まった。これは九〇年代後半まで続くことになる。

 ここで一九九四年の『GURU』(七月号)誌上のいがらしみきおの発言を見る。『GURU』での「まんがは終わったか?」特集ではいがらしみきおが力点を置いた「物語の終わり」について深い考察が行われていないのである。

  物語が終わってしまったことに結論出さないと、先へは進めないわけです、作り手としては。  評論家は言ってくれない、漫画はもう終わったと、映画も音楽も、もう終わったんだと。今   残っているのはポピュラリティというか、売れるか売れないかだけになってしまった。

 このインタビューの時点で、いがらしみきおは『ぼのぼの』の連載中であり、その実践を通じての発言である。先の『COMIC BOX』の特集の中でいがらしみきおは「終わった」と感じる理由として「漫画というものの持つ『翻訳し再構成するもの』という特質が、テレビなり、ゲームなり、他のメディアに、もっとも効率のよい形で受け継がれてしまった」ことをあげ、「他のメディアによって翻訳し再構成された自らをも、また翻訳し再構成しようとさえしているのが現在の漫画の姿」としている。いがらしみきおは、さらに「物語」と相対するものとして「コンピュータ」の存在を強調する。

  我々が物語を失ったということは、これは、脳ミソ側からコンピュータへの歩み寄りの第一段  階かもしれないということです。なぜなら、コンピュータはもともと保持すべき物語を持たな  いし、その必要もない存在としてあるからです。また自ら翻訳し再構成するという、いわば   「情報プロフェッサー」のような最近の我々の有り方は、そのままコンピュータの有り方でも  あるわけで(『COMIC BOX』一九九五年七月)

  物語は、エピソードとエピソードをつなぐことからできあがります。ところが今は、エピソー  ドからエピソードをつなぐテクニックみたいなものが、完全に飽和状態になっている。(中   略)新しいエピソードのつながりは誰にも、もう考え付けないんじゃないかと思ってるとこが  あります。だから間のつながりを、もう取ってしまえばいいんじゃないかと。今はそれで、も  うかまわないんじゃないかと。だから逆に見る人が意味を見つけないといけなくなった。そう  考えて、単なるデータベースみたいなものを作ろうと思ったんです。(『GURU』(一九九四  年七月号))

 そして自作『ぼのぼの』について次のように語る。

 以下断念。