1、はじめに
 『風の歌を聴け』についての先行論文のいくつかを紹介しながら、この作品について考えてみたい。先行論文で論じられている部分が作品のどの部分が当てはまっているのか引用されていないところが多いので、実際に提案者が挙げておく。

2、1970年代以降の文学と社会の状況
 ○三浦雅士は「主体の変容または文学の現在」(『主体の変容』一九八二年)の中で次のように述べている。「中上健次が1970年代半ばに、短篇小説『修験』をもって、一人称の世界から三人称の世界へと移行したことは、作家自身の転換のみならず、現代文学の転換そのものを象徴的に示している。(中略)吉本隆明に倣っていえば、中上健次の作品世界はここで、文学体から話体への下降を示したのである」と。吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』において「文学のような書き言葉は自己表出につかえるようにすすみ、話し言葉は指示表出につかえるようにすすむ」と述べている。三浦氏はこれについて「あえて単純化していえば、自己表出とは自己に対する意識の強さであり、指示表出とは外界に対する意識の広さである」と述べる。加えて「個人意識の確立以前から文学が存在したことは疑うべくも」なく「個人意識がまったく存在しない段階においても、自己表出は存在するということを示している」と述べる。

 ○作田啓一は『個人主義の運命』において価値観としての個人主義を構成する最も基本的な観念として、理性、個性、自律の三つを挙げ、自律は理性もしくは個性のいずれかの自律であるから、個人主義は究極的には理性の個人主義(十八世紀、啓蒙主義的個人主義、理性こそ目的)と個性の個人主義(十九世紀、ロマン主義的個人主義、個性の実現こそ目的)の二つの類型に分かれると述べている。そして作田氏によると、二十世紀は、大衆社会による欲望の個人主義がもたらされたとしている(日本においては高度成長期以降)。そしてこのイデオローグとなったのは「フロイト主義の意識的な信奉者」であるとしている。この欲望の個人主義は「管理社会のイメージを同伴している」と指摘する。「自己が自己自身であろうとすればするほど逆に何ものかによって操縦されているように感じる」のであると。「この社会は、個人にできるだけ多くの自由を与え、欲望を禁止することによってではなく、欲望を奨励することによって、社会の望む方向へ個人を動かして」いくのである。「社会の統制は、最初から欲望の中にビルトインされている」のであり、「人は欲望を抱けば抱くほど、それだけ社会化されてゆく」のである。そしてこれらをふまえて三浦氏は「この欲望の個人主義という考え方は、文学の現在を覆っている危機感をじつに巧みに語っているといわなければならない。なによりもそれは、自己表出の基底をなす自己意識そのものが、きわめて隠微なかたちで脅かされていることを見事に説き明かしてくれるからである。自己にこだわればこだわるほど逆に自己が拡散してゆくというパラドクスは、ほとんど自己表出の不可能性を示唆している。それでもなお文学体にこだわり自己表出の水準にこだわるならば、作家とその作品は狂気に瀕するほかないだろう。欲望の個人主義は、表現主体を内側から食い破ってゆくものだからである。」
「商品の流通は膨大な言葉の流通を伴っている。そこでは、言葉は商品であり商品は言葉である(中略)商品たりえない文学は存在しえない。こうして、このような状況に自覚的であろうとすればするほど、文学は自己言及のパラドクスに陥ってゆく」と三浦氏は述べる。「村上龍、村上春樹、山川健一、高橋源一郎といった若い作家たちが登場するのは、まさにこのような状況においてである。(中略)彼らの作品が文学体へ上昇しようとする志向を内に孕みながらも基本的に話体であることはいうまでもない。多くの場合、語り手は作者自身を思わせるが、しかし基本的に没主体的である。この没主体性が、管理社会のイメージを伴う欲望の個人主義のなかにあっては、逆にひとつの主体性を示唆してしまうのである。そこに彼らの新しさを見て誤りではない。このような逆説的なありようは、外界を克明に描くことによって逆に外界に対するある意味では病的といってよい無関心を示す彼らの手法にもよくあらわれている。」

3、『風の歌を聴け』
 ○三浦雅士は「村上春樹とこの時代の倫理」(『主体の変容』)の冒頭で「自分は他者の心を正確に摑むことができないのではないか」という問いで始めている。しかし、「他者の心に達することができないという思いは、ただ、自己自身への過剰な、だから決して満たされることのない関心によってのみ発生する(中略)すなわち、過剰な自己意識が到達不可能な他者の心という幻影をかたちづくってしまうのだ」と述べている。そこからの離脱をいかにこの作品では行っているか。

 ここから『風の歌を聴け』についての評論から、自己と言葉にまつわる部分を抜き出していく。つまり、「話体」を選択したこの作品はいかなることをなしているかについて考えてみたい。

○柄谷行人「村上春樹の風景 ――『1973年のピンボール』」
 → 村上の「僕」は、この意味ではカントの『純粋理性批判』を“正確に”読んでいるといっても いい。「僕」は、一切の判断を趣味、したがって「独断と偏見」にすぎないとみなす、ある超越 論的な主観なのである。それは経験的な主観(自己)ではない。村上の作品はきわめて私的な印 象を 与えるのだが、私小説ではない。私小説が前提しているような経験的な「私」が否定され ているか らだ。「私」は散乱している。しかし、ここにはそれら散乱した「私」を冷ややかに 見つめる超越 論的な自己がある。
 私が「根本的倒錯」とか「悪意」と呼んだのは、このイロニーの意識のことである。それは、経 験的な自己を冷ややかに眺める超越論的自己(意識)である。
 この自己意識はけっして傷つかないし敗北しない。それは経験的な自己や対象を軽蔑しているか らである。むろん、こうした「内面」の勝利は「闘争」の回避でしかない。

 この論文の中では、村上春樹が見出した「風景」もまた、柄谷が『日本近代文学の起源』で論じた、国木田独歩の見出した「風景」と同型であると述べている。国木田独歩の場合は、固有名のない「風景」や歴史のない「風景」に価値を見いだす行為をしていたと柄谷は考える。次の引用へ。

  村上の或る「新しさ」が、「風景」を見いだす或る構えにあったことを認めないわけにはいか  ない。いうまでもなく、それは無意味なものを有意味なものの上におく価値転倒である。その  ことを端的に示すのは、村上春樹の作品に氾濫する数字である。

 そして「日付の過剰」についても柄谷は論じる。これは何を意味するか。柄谷は「歴史的意識のあらわれではなく、逆にそれの空無化をめざしている」と指摘する。

  デレク・ハートフィールドの言葉として語られた右のような認識は、一言でいえば、情報理論  的なものである。むろん、「情報」は「意味」あるいは「物質」に対して使われている。情報  とは差異であり、意味や物質はそこに還元されてしまう。情報理論は、観念論でも唯物論でも  ないような、しかも自然史(文化史をふくむ)を一元的につらぬくような新しい視点をもたら  したとされる。

  構造とか体系といったものは、すでにそれを成立させる主体を前提しているのであって、そ   れが超越論的主観である。

 ○続いて笠井潔「都市感覚という隠蔽 ――村上春樹――」という論文を取り上げる。

  「無口」と「平凡」のあいだに設定されている異様な「饒舌」によって象徴されているものこ  そが、村上春樹の作品世界の深部に埋め込まれている謎めいた中心点なのだと考えるべきでは  ないか。
  「僕」は、三日間の熱病にいたる過度の「おしゃべり」、異様な饒舌の局面に入る。つまり言  葉に対する「僕」の否定的態度は、それへの過剰な肯定的態度へとここで鋭角的に逆転してい  るわけだ。

  第一の局面で「僕」は、言葉を否定することにより共同観念を否定していた。第二の局面では  逆に、言葉を過剰に肯定することにより、同様に共同観念を否定していた。そして「僕」が   「無口でもおしゃべりでもない普通の少年」として共同観念に同化していくのは、言葉と妥当  な関係をとり結ぶ第三の局面においてなのである。
  共同観念に背反、脱落、敵対することによって発生する自己観念の範疇なのである。「僕」は  共同観念の世界への同化を強制されることにより、観念(言葉)を承認しながら観念(共同観  念)に敵対するもうひとつの観念(自己観念)を疎外して、この強制的圧力に反逆しようと企  てたのだ。

  「情念とか欲望といった過度な内面」つまり自己観念の運動は、この高度市民社会の現実にお  いても決して消滅したわけではない。それはただ、幾重にもわたって隠蔽されているだけなの  だ。村上春樹は、情念や欲望や内面といった「重い」問題を巧妙に隠蔽していく現代市民社会  の物語、趣味や遊びや心地よさをめぐる「軽さ」のイデオロギーを方法的に模倣し、それを擬  態してみせる。
 →「彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた」

  村上春樹のレトリックは、量的なものによって質的なものを隠蔽し、「もの」を引き合いに出  すことで体験の固有性を隠蔽し、「それだけのことだ」という呟きによって、あらゆる人物、  出来事、行為、選択、等々の差異性を平板化し、一般論の背後に隠蔽していく……。
 →「それだけのことだ」は『ピンボール』に出てくる。

  ということは、「僕」が隠蔽しなければならないのは、「彼女の死」や「消えた彼女」そのも  のではなくて、それらに重さを附与する、つまりそれらを重いと感受する「僕」自身なのだ。

 「文明とは伝達である」という認識を「僕」は
  問いと応答の非対称性
 →p、50「(中略)離婚した女の人とこれまでに話したことある?」
     「いいえ。でも神経症の牛には会ったことがある。」
  しかしここで注目したいのは、描写における語り手の判断である。「女は楽しそうに笑った」  など。(p、50)
  p、45

4、疑問
一つ目の疑問は、なぜ四つ指の女が最初は「僕」に好意を持っていなかったのに、突然行為を持つようになったのか、について。

二つ目の疑問は、なぜデレク・ハートフィールドという架空の作家をあとがき(村上春樹という署名と日時を加えている)にまで登場させているのか、について。