以下、この文章は多少の虚偽を含んでいる。注も引用もない。
私は旅行した。学生時代の4年間に渡り、およそ6万キロほど車で走り、国内を経めぐってばかりいた。
この国はどこも平坦である。もちろん、山や川はある。どこも砂漠に見えた。
ここまで目を通したあなたは、私のこの文章に青臭さを嗅ぎ取ったかもしれない。しかし待って欲しい。
少しここから大きな話をする。
私は此岸にしか居ない。私は私と使う限りにおいて、あなたが「私は私と使う限りにおいて」と思うコトと同様に「私は私である」とつぶやくコトができる。これは驚くべきコトだ。いや、むしろこう言うべきかもしれない、我々は「我々は」と気がつけば使っていることに驚くべきなのだ。
しかし、私は記述の束でも属性の束ではない。これはひとつの仮説である。見立てと呼んでもよい。あなたも同様だ。あなたもまた記述の束でも属性の束でもない。固有名を持つ限り、そう言い切れるかもしれない。
固有名はひとつの単独の暴力の痕跡である。固有名「性」とそこに「性」とつけたなら単独なコトでも何でもなくなってしまう。私はその不可思議さに用がある。
私たちは類的個として他人の列に並んでからでなければ、単独なる個へと意識は向かないだろう。我々は誰かにとって必ず孤独な隣人であってしまうトコロから始まったはずである。
少し話をずらそう。誰かにとっての他者であるコトから逃れられないコトについて考えてみよう。
国内では、およそ1973年の前後からアノミーは続いたままだ。つまり、国内に住む人たちの大半はアノミーの中に生きてきたはずである。
状況はどうであれ、類的個は類的個として生きることに耐えられないのではないか。かといって、M君の部屋を頭の中に持つコトーこれはパラノの別名なのだろうかーは何の救いにもならない。ただ、持たずには居られないだけなのだ。
が、その上でなお私は言いたいのである。スキゾであるコトを選択し続けるべきではないか、と。スキゾとはアイロニカルに悲劇を喜劇として生きるコトにほかならないのではないか。全てを相対化してみて、なおかつ悲劇の中にのまれ喜劇として生きるというコト。
このアノミーという状況下でのまともさとは郷愁の別名にほかならない。家などないにも関わらず。全ては平坦である。平坦であるコトに耐えられない人を除いてはそう見える。
サークル、会、クラブ、その他何と呼んでも良いが、何の目的もなく集まったー集められた、ではないコトが重要であるー集団の中で忘却してしまうコト。モノを考えるコトを忘れてしまうコト。そこでは、我々は此岸に居るのでありつつ、彼岸に想いを馳せるコトもしない。
過剰さとは何のコトだったのか。我々をして役割の束を解かせる何か。我々はタバコを吸う。何かを待ち焦がれはするが、それは彼岸からはやってはこないコトを知っていながらに。我々が目指すのは信念の溶融であり屈託や屈折とは関係のないトコロ。規律訓練を続けながら。
責任からの逃走、と誰かが言う。責任を果たすコトはできない、ただ応答するコトは出来るにせよ。
単独であるコトを味わい尽くすコトは私が社会化された後であり、しかし類的な個は類的である限りにおいて、社会化という繭に包まれたままだ。その繭の中に居る限り、話は終わったままである。
言葉とは随分と余計なモノである。私は語りえぬモノが何なのかについて語らずには居られないだけなのだ。
金子暇森
私は旅行した。学生時代の4年間に渡り、およそ6万キロほど車で走り、国内を経めぐってばかりいた。
この国はどこも平坦である。もちろん、山や川はある。どこも砂漠に見えた。
ここまで目を通したあなたは、私のこの文章に青臭さを嗅ぎ取ったかもしれない。しかし待って欲しい。
少しここから大きな話をする。
私は此岸にしか居ない。私は私と使う限りにおいて、あなたが「私は私と使う限りにおいて」と思うコトと同様に「私は私である」とつぶやくコトができる。これは驚くべきコトだ。いや、むしろこう言うべきかもしれない、我々は「我々は」と気がつけば使っていることに驚くべきなのだ。
しかし、私は記述の束でも属性の束ではない。これはひとつの仮説である。見立てと呼んでもよい。あなたも同様だ。あなたもまた記述の束でも属性の束でもない。固有名を持つ限り、そう言い切れるかもしれない。
固有名はひとつの単独の暴力の痕跡である。固有名「性」とそこに「性」とつけたなら単独なコトでも何でもなくなってしまう。私はその不可思議さに用がある。
私たちは類的個として他人の列に並んでからでなければ、単独なる個へと意識は向かないだろう。我々は誰かにとって必ず孤独な隣人であってしまうトコロから始まったはずである。
少し話をずらそう。誰かにとっての他者であるコトから逃れられないコトについて考えてみよう。
国内では、およそ1973年の前後からアノミーは続いたままだ。つまり、国内に住む人たちの大半はアノミーの中に生きてきたはずである。
状況はどうであれ、類的個は類的個として生きることに耐えられないのではないか。かといって、M君の部屋を頭の中に持つコトーこれはパラノの別名なのだろうかーは何の救いにもならない。ただ、持たずには居られないだけなのだ。
が、その上でなお私は言いたいのである。スキゾであるコトを選択し続けるべきではないか、と。スキゾとはアイロニカルに悲劇を喜劇として生きるコトにほかならないのではないか。全てを相対化してみて、なおかつ悲劇の中にのまれ喜劇として生きるというコト。
このアノミーという状況下でのまともさとは郷愁の別名にほかならない。家などないにも関わらず。全ては平坦である。平坦であるコトに耐えられない人を除いてはそう見える。
サークル、会、クラブ、その他何と呼んでも良いが、何の目的もなく集まったー集められた、ではないコトが重要であるー集団の中で忘却してしまうコト。モノを考えるコトを忘れてしまうコト。そこでは、我々は此岸に居るのでありつつ、彼岸に想いを馳せるコトもしない。
過剰さとは何のコトだったのか。我々をして役割の束を解かせる何か。我々はタバコを吸う。何かを待ち焦がれはするが、それは彼岸からはやってはこないコトを知っていながらに。我々が目指すのは信念の溶融であり屈託や屈折とは関係のないトコロ。規律訓練を続けながら。
責任からの逃走、と誰かが言う。責任を果たすコトはできない、ただ応答するコトは出来るにせよ。
単独であるコトを味わい尽くすコトは私が社会化された後であり、しかし類的な個は類的である限りにおいて、社会化という繭に包まれたままだ。その繭の中に居る限り、話は終わったままである。
言葉とは随分と余計なモノである。私は語りえぬモノが何なのかについて語らずには居られないだけなのだ。
金子暇森