イタい奴だとは思うが痛みを感じる記述は出来なそうだ。まず思い出すことから始めよう。今、思い出すことにどれだけの意味があるかは分からないけれども。あるいは、今ここで、想起することで過去は再編成を免れることは出来ない。僕は愛想笑いと世間話というものに馴染むことが出来なくなっていた。
中学生くらいの時なら出来たのかもしれない。あるいは、高校生の頃に、ボランティアとして地域の子ども達とキャンプをしていた頃、そういう時期なら出来たのかもしれない。ただ、何となく優等生な自分がよく分からなくなった。そういうレールみたいなものから脱落することが恐かったが、気づいたらレールから落っこちていた。僕は高校3年間で、確実に落ちこぼれていた。浪人を1年間して、何とか早稲田の下位学部に引っかかった。あとで振り返ると、負け癖が付いていたのだった。それでもボランティアと読書はやめなかったから。口癖は、受験勉強なんかしている場合ではない、であった。
浪人しても読書はやめなかった。浪人の頃の予備校生活で僕は楽しく勉強を出来た。1日3時間の予習と復習と単語帳などの暗記。そしてそこそこ出来るようになったのだ。勉強が楽しくなっていた。負け癖はすっかり忘れられたモノになっていた。
大学生になり、勉強というモノが複数存在するのだと知った。学問の世界を垣間見ることが出来たのだ。ただ、最初の学部の1年間ではただただ講義はつまらなかったが真面目に出席していた。大学の図書館に通い少しだけ本を読んだ。週末にはコンビニで深夜にバイトをしていた。そして長期休みなどになると、まず深夜に地元をウロウロとドライブしていた。主にひとりだった。
範囲は関東へと広がった。車中泊をしながら深夜の時間帯を中心にドライブしていた。さらに東北地方など、外へ外へと範囲は広がっていた。東北地方はゴールデンウィークになると1周した。鈍行列車も使った。それで中国地方も1周した。車中泊は魅力的だった。個人経営の居酒屋に入りマスターのおじさんやおばさんに説教やら人生を語られるのが楽しかった。四国も1周したし、九州は2周した。年末には毎年房総半島を1周していた。東北地方はけっきょく5周はしたことになる。東北地方は1周すると4千キロほどになる。学生時代、合計で6万キロほど走ったことになる。伊勢神宮には10回ほど行った。読書も高校2年から毎年3百冊は最低読んでいた。しかし、サラリーマンになろうと就職活動を始めようとしたが、車中泊も読書も何にもならないと思ってしまった。楽しくなり始めていた学問、レポートやら論文作成も行き詰まった。サラリーマンになれない。そして大学院に進んで勉強する力もない。僕は学部3年の終わりには完全に鬱になっていた。自分が社会不適合者だと勝手に自分で判断し、好きだった学問にもフラれてしまったと思ってしまった。
今から思うと簡単に決めてしまったことだが、とりあえず死のうとは思った。携帯電話も壊した。学部4年の始まりに1ヶ月という間ではあったが、気づいたら自分のアパートの一室を開けられても良いように見られたくないものはほとんど処分して小綺麗にして、死に場所を探してか、フラフラと日本を回っていた。誰にも必要とされることなく、自分が突き詰めたいこともないと思っていた。
しかし結局のところ、死に場所も見つけられず、各所で出会った個人的飲み屋のマスターに人生を語られているうちに、死ぬことなんてどうでも良くなっていたのかもしれない。長万部あたりで、僕は帰ることにした。ほとんど無一文に近かったが、お金をおろしてカシオペアで上野に帰った。東京のアパートに帰ったのか、群馬の実家に帰ったのかは覚えていない。ただ家族も彼女も居なくなっていたことについては何も言うことはなかった。とりあえず、学部4年は休学することにして、精神科に行き薬を処方され、カウンセリングを受けることになった。
よく考えるとそこから立ち直り、社会に出るまでが長く辛かった。学部6年で卒論を出し、修士2年で修論を出し、それぞれ指導教官の良い評価を得ることができて、何とか今の仕事にありつけたのだった。この5年間が僕にとって立ち直るための苦しい期間だったと思う。しかし社会に出てからの1年間はそれよりもさらに辛いことではあったが。
徒然と書いていて気づいた。何て凡庸な個人史なんだろう、と。痛みのない記述。赤裸々なようでいて他人事のような記述。
中学生くらいの時なら出来たのかもしれない。あるいは、高校生の頃に、ボランティアとして地域の子ども達とキャンプをしていた頃、そういう時期なら出来たのかもしれない。ただ、何となく優等生な自分がよく分からなくなった。そういうレールみたいなものから脱落することが恐かったが、気づいたらレールから落っこちていた。僕は高校3年間で、確実に落ちこぼれていた。浪人を1年間して、何とか早稲田の下位学部に引っかかった。あとで振り返ると、負け癖が付いていたのだった。それでもボランティアと読書はやめなかったから。口癖は、受験勉強なんかしている場合ではない、であった。
浪人しても読書はやめなかった。浪人の頃の予備校生活で僕は楽しく勉強を出来た。1日3時間の予習と復習と単語帳などの暗記。そしてそこそこ出来るようになったのだ。勉強が楽しくなっていた。負け癖はすっかり忘れられたモノになっていた。
大学生になり、勉強というモノが複数存在するのだと知った。学問の世界を垣間見ることが出来たのだ。ただ、最初の学部の1年間ではただただ講義はつまらなかったが真面目に出席していた。大学の図書館に通い少しだけ本を読んだ。週末にはコンビニで深夜にバイトをしていた。そして長期休みなどになると、まず深夜に地元をウロウロとドライブしていた。主にひとりだった。
範囲は関東へと広がった。車中泊をしながら深夜の時間帯を中心にドライブしていた。さらに東北地方など、外へ外へと範囲は広がっていた。東北地方はゴールデンウィークになると1周した。鈍行列車も使った。それで中国地方も1周した。車中泊は魅力的だった。個人経営の居酒屋に入りマスターのおじさんやおばさんに説教やら人生を語られるのが楽しかった。四国も1周したし、九州は2周した。年末には毎年房総半島を1周していた。東北地方はけっきょく5周はしたことになる。東北地方は1周すると4千キロほどになる。学生時代、合計で6万キロほど走ったことになる。伊勢神宮には10回ほど行った。読書も高校2年から毎年3百冊は最低読んでいた。しかし、サラリーマンになろうと就職活動を始めようとしたが、車中泊も読書も何にもならないと思ってしまった。楽しくなり始めていた学問、レポートやら論文作成も行き詰まった。サラリーマンになれない。そして大学院に進んで勉強する力もない。僕は学部3年の終わりには完全に鬱になっていた。自分が社会不適合者だと勝手に自分で判断し、好きだった学問にもフラれてしまったと思ってしまった。
今から思うと簡単に決めてしまったことだが、とりあえず死のうとは思った。携帯電話も壊した。学部4年の始まりに1ヶ月という間ではあったが、気づいたら自分のアパートの一室を開けられても良いように見られたくないものはほとんど処分して小綺麗にして、死に場所を探してか、フラフラと日本を回っていた。誰にも必要とされることなく、自分が突き詰めたいこともないと思っていた。
しかし結局のところ、死に場所も見つけられず、各所で出会った個人的飲み屋のマスターに人生を語られているうちに、死ぬことなんてどうでも良くなっていたのかもしれない。長万部あたりで、僕は帰ることにした。ほとんど無一文に近かったが、お金をおろしてカシオペアで上野に帰った。東京のアパートに帰ったのか、群馬の実家に帰ったのかは覚えていない。ただ家族も彼女も居なくなっていたことについては何も言うことはなかった。とりあえず、学部4年は休学することにして、精神科に行き薬を処方され、カウンセリングを受けることになった。
よく考えるとそこから立ち直り、社会に出るまでが長く辛かった。学部6年で卒論を出し、修士2年で修論を出し、それぞれ指導教官の良い評価を得ることができて、何とか今の仕事にありつけたのだった。この5年間が僕にとって立ち直るための苦しい期間だったと思う。しかし社会に出てからの1年間はそれよりもさらに辛いことではあったが。
徒然と書いていて気づいた。何て凡庸な個人史なんだろう、と。痛みのない記述。赤裸々なようでいて他人事のような記述。