~第十四章 元素の創造と転換・物質の変性と生命~
この町から約一日の行程のハルドワルドも近づいた頃、私達はウェルドンという一アメリカ人の住家に旅装を解いた。彼は温かく歓迎してくれて、五六日は泊まって行くようにと、強く勧めてくれた。ウェルドンは有名な作家で、多年インドに住んでいるが、わたしたちの事業に共鳴し、深い関心を持っていた。
これまでにも数回、わたしたちの事業に参加させてくれと頼んできたのだが、まだ彼を迎え得る事情にはなっていなかったのである。翌日、彼の庭でわれわれの体験を話していると、彼が突然、自分はナザレのイエスと呼ばれている人物の歴史と生活の信憑性を完全に認めたことはないと言い出した。
彼はこれまで手に入る限りのいろいろな記録を注意深く読んでみたが、皆んな曖昧で、間違いなくそうだと思わせるものに欠けているように、彼には思われたのである。従って彼の心中には、そのような人物の実在について非常に重大な疑惑が澱んでいるため、終には失望して研究も放棄してしまったという。
そこで隊長は、仮にウェルドンがイエスと対面した場合、イエスだと分かると思うかどうか、又、いかにしてイエスと分かるか、と聞いてみた。ウェルドンの答えはこうである、「あなたは、これまで僕の全生涯を動かしてきた最大の動力であり、理想でもあった主題に触れてくれました。
この人物が、この地上に肉体の形をもって存在したことが事実であるという何かのしるしがありはしないかと、僕がどんなに魂を吸い込まれるように関心をもって期待してきたか、あなたには分かりますまい。しかし僕の疑惑は年毎に強くなり、とうとう全面的に信頼のできるイエスの足跡を見つけ出そうという試みを放棄してしまいました。
ところがそうはいうものの、何時か何処かで、外部から前以てそれと知らせるようなものも何もなしに、この人物に面と向かうことになったとき、僕には間違いなくイエスと分かるんだという一筋の仄かな思いとでもいうか、或は一筋の希望とでもいうべき或る物が、ずっと奥の何処かにはいつもあるのです。それが本能的に僕の前に湧きあがるんです。
僕はあなたに断言する。――こんなことは今までに口外したことはないのだが――ぼくにはイエスだと見分けがつく気がするのです。この気持ちは、今までに経験したうちでも最も真剱な気持ちなのです。同じ事を繰り返してもお許し頂けるのなら、敢えてもう一度断言する。僕にはイエスと見分けられる気がするのです」。
その晩、われわれが寝仕度をしているところへ、隊長がやって来て言うには、「諸君は今日の午後、イエスというお方について交わされた話を皆んな聞いたわけだ。ウェルドンの真剱さは皆んなにも分かったと思う。どうだろう、彼にわれわれと同行するように勧めようじゃないか。
われわれの目的地にナザレのイエスといわれている方が、いるかどうかは知らないし、又、そこにいると決め込む手だてもない。われわれはこの方の動きを調べることもできない。只、そこにいたことがあるということを知っているだけだ。尤も、ウェルドンに同行を勧めても、その方がそこにいなかったとすれば、彼の失望を益々深め、何の役にも立たない結果にもなりかねないけれどもね。
ウェルドンはわれわれと一緒に行きたがっているようだが、われわれとしては誰一人、このイエスなる人物がそこに間違いなくいると知っている者もいないし、いずれにせよ、われわれの内の誰にしても、イエスについての思わせぶりのことは言えないのだから、僕としてはチャンスじゃないかと思う」。一同はそれに同意した。
こうしてその翌朝、隊長はウェルドンにわれわれとの同行を勧めた。その瞬間、ウェルドンの顔がパッと期待で輝いた。そのあと一寸思い直してから、次の水曜日には割当の仕事があるので、その時までにはこちらに帰らないといけないと言った。その日は木曜日だったので、あと六日はあるわけである。隊長としては時間はたっぷりあると思った。
そこでわれわれは、その日の午後出発することにした。やがて万事好都合に運び、二日目の正午、目的地に着いた。着いてみると、われわれの入ることになっていた宿舎に、十二人の人がひとかたまりになって坐っている。わたしたちが近づいてゆくと彼らは起ち上がり、宿舎の主(あるじ)が挨拶に寄ってきた。この一団の中にわれわれは、何と、イエスが立っておられるのに気づいた。
誰も一言もいわず、それらしい素振りもしないのに、われわれの中からウェルドンが、両手を差し伸べて進み出て、やがて歓声をあげて走り出し、「ああ、分かりました。分かりました。貴方様です。ああ、この瞬間こそ、わたしの全生涯での最も聖なる瞬間です」、そう言いながら、彼はイエスの両手を握りしめたのである。この場の様子、とくにウェルドンの感激と歓びとに、われわれも亦、神聖な法悦に近い或る物がサッと身内を走るのであった。
一同にウェルドンが紹介されるとき、われわれも前へ出て挨拶を交わした。昼食がすんで庭に坐っていると、ウェルドンがイエスに言った。「わたくしどもにお話をして下さいませんか。わたくしはこの瞬間を、これまでの一生をかけて待ち望んできたのです」暫く沈黙がつづいてから、やおらイエスが語り始められた。
イエスの法話
『今の沈黙の中で、わたしの語りかける父、わたしの裡にまします父なる神は、すべての人々の中に在しまし、すべての人々が語りかけることのできる、愛の父なる神と同じであることを、わたしと同じように親しい気持ちで知って欲しい。ひとすじの不可思議なる栄光が心琴(複数)〔各人の魂の意か=訳者〕をサッと過ぎれば、それは至純にして神性なる生命と共に振動する。
〔以下暫くウェルドンの心の状態が語られている-訳者〕その音の余りの純粋さに、待ち設けていた沈黙(しじま)も止まり、いよいよ心熱く耳を傾ける。あなた自身の大いなる智慧ある者(即神我)の指(複数)があなたの手(現象我)に触れれば、その柔らかき触感はしばしそこにたゆたう。その声は常のごとく、父なる神の大いなる栄光かがやく愛についてあなたに語る。
あなた(神我-訳者註)の声があなたにこう語っている、『あなたはわたしと共にある。あなたとわたしとは共に神である』。今や神のキリスト・神我が現れたのである。では、あなたたちはすべての制約を打ち消して、霊においてわたしと一緒になるがよい。今わたしがあなたたちに与える以上の大いなる思想が嘗てあなたたちに与えられたことはない。
そんなことができる筈がないと人々が言おうと、それは問題ではない。丁度、わたしがすべてを征服したのをあなたたちが見たように、あなたたちの一人々々が今やすべてを征服し、完全に支配する聖なる主となったのである。時は今、此処に満ちている。あなたたちが聖なる主に放送した純粋な思念が満たされて、あなたたちの体に実(みの)ったのである。
かくて魂は完全なる支配権を得たのである。あなたたちはわたしと共に、天の高みに駆け昇るのである。わたしたちは自分の体を高揚し、遂にその輝く光を純粋白光の光炎と化す。その時のわたしたちは共に父なる神に回帰したのである。わたしたちの父なる神は純粋の光であり、この振動する光からありとしあらゆるものは出てきたのである、この波動の中において、すべては神とともに在る。
これらの振動する光の放射の中にあっては、すべての物質意識は拭い去られ、あらゆる被造物が形なき者より放映されて形あるものとなり、すべてのものが各瞬間毎に新しきものとなるのが見える。太初(はじめ)の宇宙、即ち水様原質、即ち神なる質料(aqueous of God Substance)(水の様に宇宙にみちみちている根本的質料も神の現れであるから〔神なる質料〕-訳者註)の中には、一切が存在している。
その故に振動はきわめて高く、何人にもそれは見えない。われわれ大師といわれる者のように実相・神我の中にあるのでない限り、人は自分の体のヴァイブレイションを実相のヴァイブレイションまで揚げる努力が必要である。さて、あらゆるものの創造が四六時中行われている。それは創造が、大宇宙の中で発生した宇宙光のヴァイブレイションの放散によって起こるからである。
この放(レディエイション)射するものが大普遍生命、またはエネルギーであって一切を支えており、放(レイディエーション)散、又は振(ヴァイブレーション)動の父といわれるのである。逆にそれは、他の一切の放散又は振動を粉砕するが故に、レイディエーション(放射)又はヴァイブレイション(波動)の父といわれる。実際には粉砕するのではなく、或る形態を実現するために、他の放射または振動を除けておくだけである。
われわれの体が、大霊のヴァイブレイションに同調して振動するならば、われわれは一切のヴァイブレイションの中でも最大の光のヴァイブレイション、一切のヴァイブレイションの父、即ち神となる。これらの宇宙線が、いわゆる物質を破壊するほどの恐るべき砲撃力となることが、遠からず証明されよう(1)。これらの宇宙線はあらゆるエネルギーの根源、あらゆる元素の父、あらゆる元素の根源から来る。
これは実は破壊ではなく、いわゆる物質から霊形態への変(トラススミューテイション)性なのである。これらの宇宙線が極めて巨大なる透過力を有し、あらゆる物塊(マス)を透過して、いわゆる原子のハート、核そのものをいわば破壊し、それを他の質料(サブスタンス)の原子に変性して、かくしてより高い秩序に属する他の元素を創造することが、遠からず分かるようになるであろう。
かくのごとくにして創造は進行してゆき、純光即ち純生命をより高き次元に放射してゆく。このような巨大なる透過力のあるこれらの放射は、地球や太陽銀河からくる放射とは容易に識別されるし、後者の放射を完全に支配する力がある。これらの放射は或る不可視の普遍的根源から来るもので、その放射線は極めて強力で一個の元素を変化させ、或いは変性させて、他の元素の無限の微粒子と化してしまう。
地球がこれらの放射線の恐るべき砲撃を不断に受けていることなどが、間もなく知られるようになろう。この宇宙線が原子の核を撃つと、核は破壊されることも発見されよう(1)。宇宙線はこの原子を分割して他の質料の微粒子と化し、かくて低次より高次の元素へと変性する。かくして、これらの放射は物質を破壊するのではなくて、低次より高次の元素へ、即ち物質的なものより霊的なるものへと変性するのである。
この高次の元素は、人間の命ずるがままになる。それは、人間が高次の目的のために使用するから、名づけて高次というのである。人間が霊的ヴァイブレイションを起こしているときは、この放射線とその動き方を完全に決め、且つ制御することができる。かくて霊的振動を起こしている人間にあっては、四六時中彼の周囲全体で変性が起こっている。
変性とは高度の意味における創造なのである。従って一切は、その現に存在するところで創造されるのである。創造は決して止むことなく、続き続いて決して終わることはない。大宇宙から発する放射線は光より成り、この大宇宙より爆出する、いわゆる光弾丸によって構成されている。
この大宇宙はすべての宇宙群(2)を囲繞し包含しており、この大宇宙の中で各小宇宙群よりふんだんに放出されるエネルギーをそれぞれの太陽が吸収し、その中心太陽核に送り込み、保存し且つ集中して、形成する。この中心太陽は、振動し脈動するエネルギーで充満するようになり、一方エネルギー自体はきわめて濃厚に凝縮し、ついにいわゆる光弾丸が猛烈な力で発射され、他の原子核と衝突したときにその原子は粉砕されるが、破壊はされない。
その粒子たちは変性して他の元素たちの粒子となり、しまいには同化してこの新しき元素となって落ちつく、かくてその元素が蘇生するわけである。生命とは、光弾丸のいわゆる砲撃によって放出されたエネルギーである。そのうち、放出された粒子によって吸収された部分はその粒子の生命といわれ、放出はされたが生命として吸収されなかったエネルギー部分は大宇宙に、いわば返還、引き戻される。
そしてそれは再び集中、濃縮された上でまた発射され、他の原子たちと衝突してそれを粉砕し、かくて他の元素の原子創造の要因となる粒子たちを創造する。かくて拡大、集中、ヴァイブレイションの低下、濃縮を経て、ついに形態化し、創造は永遠に続く。この智慧を有する放射エネルギーが、吾人の周囲の宇宙群を統制し、本来霊的であって物質的ではない、われわれの体という宇宙を統制する神なのである。
この変性は崩壊ではない。これらの光弾丸のごく一部分のみが、一定の時間比で且つまた法則に完全に従って、他の原子たちの核を撃つように英智が指揮(ES細胞(Embryonic Stem Cell)とは、人体(小宇宙)の各部位を造り出せるなんにでもなれる大元の分化前の万能(神我・キリスト〔人間の本質〕細胞-bolivi-)しているので、バランスの崩れた現象化はしないようになっている。
人間は、この究極の英知と一つになれば、秩序整然たるやり方でこの打撃を高めて、彼の必要とするものを瞬間的に満たすことができるのである。こういう方法で、人間は遅い自然の過程を促進することができる。しかし自然に干渉するのではなく、自然が低い秩序で働く低いヴァイブレイションの率よりも、もっと高いヴァイブレイションの率で自然と共に働くのである。
『汝らの目を挙げて野を見よ、野はすでに白く苅り入れの用意整いたればなり。』〔ヨハネ伝四章三五節〕である。すべてはヴァイブレイションであり、すべてはヴァイブレイションの働くところの面、乃至、分野に対応する。この面又は分野(共に複数)とは、地球を取り巻いている同心円帯(バンド(複数)、又は殻(かく(複数)のことではない。
これらの同心円の殻、又は層(複数)は、イオン化した帯であって、地球を取り巻いており、地球上から発するヴァイブレイションを反射するが、宇宙光線の射入は妨げず、閉め出しはしない。四六時中、変性即ち創造が続くのは、これらを通じてである。わたしたちの体でさえ、低次より高次の状態に変性している。
わたしたちは自分の想念を、従って又、自分の体を、より高きヴァイブレイションに意識的に同調し続けることによって、この変化を意識的に指揮することができる。こうして、わたしたちの体を、より高き振動率に意識的に同調させることによって、わたしたちはその高きヴァイブレイションそのものとなる。この状態の中で主(マスター)はあなたたちを待っている。
あなたたちは本来今あるままで主である。一切の状態の支配者なのである。或る一つのものを自らが神として創造する自覚と栄光とは、いかなる物質的な世俗の思いをも遙かに超えることが今、あなたたちに分かったのである。第一段階は常に、まず『完全』の習慣、『神』の習慣、『キリストなる神』という習慣を養う積もりで、自分の想念、心、体の一切の外に出る働きを完全に統制することである。
何処にいようと、仕事中であろうと、休憩中であろうと、思い出すごとに、このことを実行せよ。この完全なるものが自分の中に存在するのを観ぜよ。この完全なる存在を自分の真我、神なるキリストの臨在と観ずる習慣を養え。更に百尺竿頭一歩を進めて、汝の存在のまさに中心より聖なる白光が、目も眩むばかりの純粋さと輝きとを以て発光すると観ぜよ。
その大いなる輝きと栄光とが、全肉体のあらゆる細胞、繊維、組織、筋肉及び器官から発すると観ぜよ。かくて、真の神のキリストが勝利に満ち、純粋、完全、永遠なる相をもって顕現せりと観ぜよ。小我のキリストにあらず、汝自身の真の神のキリスト、汝の父なる神の一人子、常に勝利に満ち、一切を征服する神の真の一人子のことである。
『神』という度毎に、自分が神を出していることを十分に分かって貰いたい。そうすれば、あなた達はわたしを神のキリストとして世に出すよりも大いなる奉仕を世にすることになろう。自分自身を神のキリストと見ること、自分自身を神として世に現すこと、神を自分自身と見ることが、遙かに偉大且つ尊いことなのである。あなたたちは後ろの方に坐って、わたしに取りなしを祈る。
わたしを偶像にしたり、肖像(にすがた)を造ってそれに祈ったりしない限り、わたしを神のキリストとして世に示し、わたしを通じて現れた相(すがた)を神の特質として認めてくれるのは、非常によろしい。しかしわたしの姿を刻んだり、その肖像に祈ったりした瞬間には、もうあなたたちはわたしを貶(おと)し、あなたたち自身を貶しているのである。
わたし、または誰でもよい、他の者の示す理想を見て、次にはそれを自分自身の理想とするがよい。そうすれば、わたしたちは神から離れることがないし、世界を征服する。われわれと共に神において一つとなることによって、偉大なることが成しとげられるのがお分かりであろう。愛と尊敬、献身と崇拝の心でこういうことを涵養すれば、それは習慣となり、やがてあなたたちのすべてとなり、日常生活となり、存在となり、かくて短期間に、神を顕すようになる。
かくて又、あなたたちは再び聖なるキリスト、神の嫡出子となる。この大いなる光を実際に感じ、見、掴むがよい。それを自分のものであると受け取り、そう宣言し、また自分のものであると積極的に知るがよい。そうすれば短期間の中に、あなたたちの体から真実この光が出るであろう。あらゆる時代、あらゆる状態において、無辺の宇宙を通じてこの最高の光は実存してきている、それは至るところにある。この光こそが生命である。
何かの事が明らかにされると、われわれはそれについて啓蒙された(enlightened)即ち、光を注がれたことになる。この光はわたしたちの意識的な観念の中に入ってゆく。すべての偉大な方々の場合にもそうであったように、程なく生命の光があなたたちの注視しつつある目にも届くであろう。これらの偉大な方々の多くが、大いなる光の中に現れている姿が描かれている。
あなたたちには見えないかも知れないが、この光は実際にあるのであり、それはまた生命でもあって、あなたたちの体からも放射しているのである』。イエスのお話がここまできた時、ウェルドンは聖書の教えについて話し合ってもよいかどうかをお伺いしたところ、すぐに御承認を戴いたので、わたしたちは起ち上がって一緒に庭に出て行った。
そこでウェルドンが大声で言い出した。「まあ、考えてもごらんなさい。あなたたちがここでこのような偉大な方々とつきあっているのに、僕は同じ近所に住んでいながら、少しもこの方々の偉さが分からなかったとはねえ。今日は僕にとっては本当に啓示の日だった。新しい世界、新しい光、新しい生命が啓示されたのだ」。
どうしてイエスと分かったかと訊いてみると、ウェルドンの返事は、「僕にこの方が分かったのを珍しがっているが、僕にはどうして分かったのか分からないんです。何となく分かるのです。誰が何といったって、何となく分かったんです」ということであった。
ウェルドンがもし前に話していた仕事をやるのであれば、次の月曜日に出発しなければならないし、われわれの一行のうちその日にダージリンに向かって出発するのが二人いるから、ウェルドンと同行することになろうと水を向けたところが、「出発だって?僕は、誰かに僕の仕事を代わりにやらしてくれるように、使いの者をもう出しましたよ。僕はここに居残る。だのに、あなた方は僕を追い出そうとするんですか」というのであった。
訳者註
(1)現代の物理学はこのことを証明した。
(2)天文学でいう個々の島宇宙の意か。