ビッグソルトの秘密

ビッグソルトの秘密

人生60年を超えて、これまで積み重ねてきた経験を
今ここでカミングアウトしていきます。

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高校時代に付き合っていた彼女・洋子(仮名)に紹介された姉妹校に通う敦子(仮名)

二人は共に静岡県焼津市に住んでいて、中学生時代からの友達だった。当時彼氏のことで悩んでいた敦子を洋子が僕に紹介したのだ。僕は敦子を『妹』として付き合った。そしてその悩みが解決されたあとも、僕は敦子と兄妹として付き合い、時には洋子とのデートに敦子を加えて3人で遊ぶ事もよくあった。

1979年10月、僕と洋子は敦子にコンサートに呼ばれていた。それは吹奏楽部員だった敦子たち3年生部員の卒業コンサートだった。敦子はテナーサックス担当だった。

曲目の中にあった『モンキーマジック(ゴダイゴ)』には敦子のソロ部分が多くて、僕も洋子も感動していた。そして最後に演奏された曲は『アフリカンシンフォニー(ヴァン・マッコイ&ザ・ソウル・シティ・シンフォニー)』は、今でも脳裏に残ってる程興奮した。

その敦子を次に悩ませたのは、一緒に卒業するクラスメイトだった。そのクラスメイトの親の弱みにつけ込んだあるショップのオーナーが、クラスメイトに売春をさせようとし、敦子はそれを助けたかったのだ。

その相談を受けた僕は、そのショップに出向き、店の様子を探った。その店は一見健全に見えたが、怪しい奥部屋を見つけた。僕はお店を出てしばらく外から見張った。すると一人の男性が出てきた。さっき僕が行った時には店内に見当たらなかった顔だ。僕は持っていたバッグの中にあるラジカセの録音ボタンを押し、その男性に声をかけ、一か八か奥部屋で行われていただろう性行為について、あたかも僕自身もそれに加えて欲しい事を装って話を聞いた。すると男性は売春の事を喋ってくれた。僕は男性に本当の目的を話し、男性を最寄りの派出所に連れていき、録音テープも証言として警察に提出した。実は警察も内定していて、その男性の証言と録音テープで、ショップに家宅捜索が入った。そこで売春に関わった人間は逮捕されたが、クラスメイトには売春の実行はなかったため、学校も問題にせず、敦子はクラスメイトと一緒に無事に卒業できた。クラスメイトの親も自己破産申請で問題を解決し、一からやり直す事となった。

高校卒業後、地元の印刷会社の事務員として働いていた敦子。兄妹として僕たちの絆はさらに強くなった。

僕もまた農協加工部で深夜勤務などを頑張っていた。

1983年8月のある朝、1週間の深夜勤務があけた朝、僕は深夜勤務だったことも言わずに、敦子と海に泳ぎに行った。そして次の週末にぶどう狩りに行く約束をして、その日の夜、敦子を家に送り自宅へと車を走らせた。その途中、僕は居眠り運転をしてしまい、事故を起こしてしまった。車を破損してしまい、修理のためにぶどう狩りに行けなくなったことを、電話で敦子に伝えた。事故の原因も話した。すると敦子は自分に責任があると言い出し、「今までありがとう」と言って電話を切った。

それからしばらく、僕たち兄妹は会わなかった。

事故で僕は90日の免許停止。講習を受けて45日に短縮され、その年の10月に入るとすぐに僕の免停はあけた。そして免許証を返してもらったその足でデパートに行き、敦子にチャウチャウのぬいぐるみを買って配送を頼んだ。するとそれが敦子の手元に届いたその日に、敦子から電話が来た。僕が電話に出ると、敦子は泣いていた。

会わなかった一ヶ月半の間に敦子に何があったか。

僕は敦子の元に車を走らせた。

敦子の家の近くの喫茶店に入り、僕は敦子から話を聞いた。

8月後半、僕と敦子が会わなくなると、敦子は同じ会社に勤める男性と恋に落ちた。僕の事故で敦子の心は傷つき、それをその男性が癒したそうだ。

敦子はその男性をどんどん好きになっていった。だから敦子は幸せだった。そして同じ会社の別の部署にいる友達に彼を紹介した。

友達は敦子を祝福してくれた。はずだったのに・・・

ある日残業で帰りが遅くなった敦子。会社を出てすぐのところにある公園のベンチに、抱き合いキスをする見覚えあるふたつの顔があった。友達と彼だった。

そして翌日、彼の口から一方的に別れを告げられた。

敦子には衝撃が大きかった。彼と友達、2人に同時に裏切られたのだ。

まさにそのタイミングで届けられたチャウチャウのぬいぐるみ。


僕・洋子・敦子、三人はカーステレオでサザンオールスターズを聴きながら、運転手交代しながらロングドライブを楽しむ休日が続いた。敦子も洋子も、居眠り運転で事故った僕に気を使って、運転手交代制にしたのだ。

数年後、敦子は本当の幸せを掴み、チャウチャウのぬいぐるみと共にお嫁に行った。

その頃僕と洋子には、前回話したような事があった。


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遺産相続問題から数年。
次の僕の相手はある宗教団体だった。
その頃の僕は車を買うために、農協加工部で夜勤の仕事を多くやっていた。
ようやく遺産問題から開放された実家に迷惑をかけたくなかったのだ。
だがそれは、当時付き合っていた彼女との間のすれ違いを深くして行った。
しかし彼女はそれを悩み始め、ピアノ教室の教師だった彼女は、教え子の親にある宗教団体を薦められた。それが『エホバの証人』である。それと同時期、僕は職場の同僚からある団体を薦められた。それが『創価学会』である。また、さらに同時期に職場の先輩から、ある勧誘を薦められた。それが『アムウェイ』だった。

とにかく僕は頑張って車を買い、彼女を誘った。しかしそれからの彼女は、会えばキリストや聖書の話。それを重ねていくうちに、僕は自然と彼女と距離をとるようになって行った。そんなある日、事件が

ある日の夜遅く、彼女から助けを求める電話があった。何人かの男たちに追われてると、、、
僕が「今すぐ行くから場所を教えろ!」と言うと彼女は「きっとキリスト様が助けてくれるから大丈夫」と電話を切った。
僕は瞬間で電話の場所を推理し、ピアノ教室から彼女の自宅との間には、数える程の電話ボックスしかなかった。
僕は清水市(現在の静岡市清水区)で彼女は焼津市。東名高速をぶっ飛ばしても数十分はかかる。
「お願いだ!逃げ切ってくれ!!」
そう思いながら、僕は夜の東名高速を急いだ。そして、心当たりのある最初の電話ボックスには、彼女の姿はなかった。次の電話ボックスにもいなかった。そして三ヶ所目の電話ボックスにたどり着く途中に僕は、助手席のドアの開いた彼女の車を見つけた。
僕はその車の影で、服をボロボロにされうずくまってる彼女を見つけた。
そう、間に合わなかったのだ。
僕は彼女に一言。
「キリスト様は守ってくれなかったじゃないか。でも、僕もまた君を守ることが出来なかった。すまん!」。僕は土下座をした。

中学生時代にいじめから立ち直り、高校では生徒会長にまでなった僕。
そして遺産相続問題で人の苦しみを知った僕なら、いろんな人を笑顔にできると過信していた。
でも、車が欲しいと言う自分の思いから夜勤を増やし、彼女との距離を作ってしまった僕は、その彼女一人すら笑顔にできなかった。

僕は彼女の車を運転し、彼女を家まで送ったあとタクシーで自分の車に戻った。

そうして落ち込んだ僕にさらに迫ってきたのが創価学会だった。僕は創価学会の集会に連れていかれた。そんな僕を思いとどまらせたのは、高校時代に彼女が僕に紹介した妹だった。その妹のおかげで、僕はアムウェイとも繋がらずに済んだ。

次はそんな妹の話を書こう。
わかりやすく言えば、♪悲しみがとまらない

1976年4月、僕は高校に入学した。片道11kmの自転車通学が始まった。

その年の二学期には生徒会広報となった。

朝一番に登校し、正門に立ち、登校してくる生徒や教職員に「おはようございます。」と挨拶をする『あいさつ運動』と言うのが僕のポリシーだった。

1977年4月には生徒会副会長となり

1977年10月には生徒会長となった。

1978年4月には2期目の生徒会長となり、僕が築いた『あいさつ運動』は、伝統的に今でも続けられているという、その間には恋もし、その恋が僕の生徒会活動への活力となっていた。また、当時の彼女に紹介され、僕には姉妹校に通う妹ができた。

高校卒業後、僕は父の意志を継いで、二年間農業のもう勉強をした。

そして僕は清水市農業協同組合に就職し、加工部に配属になった。

1981年8月、祖父が急変した。僕は急いで祖父が入院する病院に駆けつけた。祖父は僕を見ると僕の方に手を伸ばしてきた。その手を僕が両手で握ると、祖父は僕に何かを言い残して、静かに息を引き取った。

それが何を言おうとしていたのか、僕には今でもわからない。だけど何かを託された感じがした。


祖父には父も含めて7人の子どもがいたが、そのうちの2人はろくにお見舞いにも来なかったのに、亡くなったら突然葬儀の支度に一生懸命になった。

祖父は遺産を全て母に委ねると言葉を残していた。母はほんの一部の畑を自分のものとし、残りの全てを長男に譲るとしていた。1945年に父が他界してるので、祖父の遺産の相続権は、僕たち姉兄弟にも回ってきたのだ。しかしそんな母と僕たち姉兄弟を狙ってきた叔父叔母がいた。見舞いにも来なかったのに、亡くなったら葬儀に一生懸命になった2人だ。

その2人が実家に対して嫌がらせが始まったのだ。

嫌がらせの電話、不幸の手紙

そして僕に対しては、仕事帰りの僕の車を煽り、僕がそれをかわすと相手のキャデラックが事故った。

するとキャデラックの男は、僕に懐く甥を傷つけられたくなかったら、僕自身の相続権を叔父叔母に譲るか、事故の慰謝料を払え!と脅してきた。

僕はそのどちらも断り、車で派出所に向かった。

僕に過失がないことを、目撃した誰もが証明してくれた。さらにキャデラックの車中からは薬物が発見され、逮捕された。しかしキャデラックの男は、叔父叔母との関係を話すことはなかった。


僕たちは本当に悔しかった。

まさか父の兄弟に裏切られるなんて。

祖父の遺産相続権は、既に母と長男に生前贈与されていたにも関わらず、叔父叔母はそれを裏切り、嫌がらせと脅迫でそれを取ろうとした。農家にとって畑は大切なのに。

だけど、まだ小学生でこの件とは関係のない甥にまで手を出そうとするとは。


甥の安全を考え、僕たち家族は叔父叔母に屈するしかなかった。


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どうやら僕は、周りから心の強い人間だと思われがちだそうだけど、僕の過去には強さなんてものはなく、弱さばかりが多かった。
そんな生い立ちを話したいと思う。

1960年9月23日お昼、僕は生まれた。
たまたま父が農業で表彰を受けたことから
僕の名前は『彰(あきら)』と命名された。
1961年3月、生まれて6ヶ月の僕は肺炎に襲われた。当時の肺炎は重病で、僕の小児性肺炎は、医者が諦めたほどのものだったが、奇跡的に僕は生き延びた。しかし、その肺炎はその後の僕の臓器を苦しめる傷跡を残すことになった。
僕の実家は静岡県静岡市清水区(当時は静岡県清水市)のみかん農家。父も母も忙しい毎日を送り、1姫3太郎の末っ子の僕は、姉兄たちや父の一番下の妹である叔母が面倒見てくれた。
本当なら生後6ヶ月で終わっていたはずの僕の命。当時の医療関係者や姉兄や叔母に支えられた。そんな僕は子供ながらいろんな人への感謝の気持ちがあった。
僕も成長し、幼稚園児となり、YAMAHAの音楽教室に通わされた。周りの生徒が女の子ばかりであることで、僕は教室を4年でやめてしまった。それでも僕が育った村には同じ学年には女の子しかおらず、家に帰っても姉兄の友だちしか遊び相手がいなかった。
それよりも僕は、肺炎による体の弱さを克服したくて、水泳を始めた。そしてプールから帰る途中での畑で働く人たち誰にでも声をかけ、家では縁側で新聞紙を広げる祖父の近くに座る『おじいちゃん子』になっていた。

1970年5月、父が脳溢血で他界した。大阪で開催されていた万博に連れてってもらうと言う約束を果たせずに。当時僕は9歳だった。
1974年8月、当時の僕は夏風邪で高熱にうなされていた。そんな時に祖母が脳溢血で他界した。すると僕の熱はすぐに下がった。祖母が僕を助けてくれたのだ。

そして僕は明るく育った。いや、明るくなければいけないと思った。それが僕を調子づかせてしまった。僕は鼻をほじるふりをして、それを女子生徒に擦り付ける振りをしてしまった。それから僕はクラスの女子に無視されるようになってしまった。それが『振り』である事を話しても、女子にはそれが許せなかったようだ。そのままクラスメンバーも担任も変わることなく、中二から中三へと進級した。女子生徒たちの僕への無視はさらにエスカレートしていた。僕が触れたものには触れないというものだった。それでも原因は僕。僕が耐えるしかなかったのだ。だけど友達はずっと友達でいてくれた。その友達の一人がホームルームで担任の前で女子たちに叫んでくれたが


「確かに原因を作ってしまったのは彼だけど、お前たちはもうそれ以上の事を彼にしてるんだぞ!しかもたった一人の彼に対してお前たちは複数で!!」と。
彼女たちは一人一人僕に謝ってくれた。僕もまた最初にしてしまったことを、一人一人に謝った。

その後僕は、クラスの中での明るさを取り戻し、日曜日にはみんなで遊びに行き、その中心の中には僕も混じっていた。
特に同じ高校に進学した友達とは、ずっと繋がっており、今でもSNSでやり取りしてる。
また、僕のために立ち上がってくれた友達は、残念なことに数年前に事故で亡くなってしまった。

そして、僕の本当の悲しみは、ここから始まった。

12月9日(木)・・・いつも通り朝目が覚めた僕だが、実は少しだけ体調に異変を感じていた。
最初それは人工透析によるものだと思っていたが、どうも様子がおかしい。
まあ、そのうち治るだろうと思いながら、僕はいつものようにSNSを始めた。
でも、気持ちの上でなぜかある曲を思い出し、僕はFacebookにこんな投稿をしていた。
この投稿の2時間前には、悲しみが繰り返され、僕はまだその事実を知らなかった。

 

12月10日(金)・・・この日は多少、嘔吐下痢気味で目を覚ました僕。やはり透析のせいではない。
僕はまだ繰り返された悲しみを、この時知らなかった。
10時23分、実家の兄貴からLINEが来た。

『今朝の新聞に バイク事故の 記事が有りましたが、正矩(長男)では ないですよね』と

僕は新聞はとってないので、すぐにインターネットで検索したら、テレビニュースで載っていた。

だけど僕は信用していなかった。事故はたしかにあっただろうけど、そこに名前がなかった事と、何よりも正矩はバイクをやめたはず。

正矩は4年前にバイクを辞めるといい、載っていたバイクを売り払っていたのだ。

絶対に正矩ではない。と信じていた。
ところが・・・。

その日の午後、啓輔(次男)もまた僕の実家から連絡を受け、警察署に向かっていた。
そこで身元が確認された。
そこに眠っていた遺体は、正矩で間違いなかったのだ。
僕自身もまた警察に連絡して、そこで事実を突きつけられた。
生々しい事故の状況まで・・・。

僕はまたパニック障害を起こしかけてた。
心臓がバクバクしていた。

何をする気力もなかった。
まさか僕よりも早く、正矩が女房のもとへ逝ってしまうなんて・・・。
僕は自分を責め続けた。
正矩はまだ29歳。来年3月には30歳になる。
やりたいこともたくさんあったはず。
なのに僕は、1994年1月16日には陽子(女房)、2007年11月23日には義母、2010年12月4日には義父
そして2021年12月9日には正矩(長男)を守ることができなかった。

12月11日(土)・・・眠れないまま朝を迎えた。
僕は悲しみを堪えながら、人工透析のために病院に向かった。
その途中、幻だろうか・・・僕は正矩の姿を横断歩道の向こう側に見て、赤信号にも関わらず駆け寄ろうとして助けられた。
正矩が僕を呼んでる?そう思ったが
それは『来るな!』とも思える正矩の警告にも思えた。
そして長時間にわたる人工透析の最中、僕はずっと正矩との歴史を振り返っていた。
『ひとつの迷惑につき1回のビンタ』
それが僕と子供たちの間で生まれたルールだった。それは親である僕が誰かに迷惑をかけた時も同じだった。
今、僕は正矩にビンタしたいと同時に、正矩を守れなかった僕にビンタが欲しい。
たとえ僕が正矩にビンタできたとしても、もう正矩は僕にビンタを返してくれない。
そうしている間に透析は終わり、僕は家に帰った。かなり疲れた状態で・・・。

そして12月12日(日・今日)・・・少し眠れた。また正矩の夢を見た。
正矩の遺体は明日、浜松で検視を受け、早ければ明日の夜もしくは明後日以降に戻ってくる。
それまでには、正矩が無事に天国に旅立てるように準備してあげたい。
僕はそう思い目が覚めた。

だって、正矩の朝は2021年12月6日で止まっているけど、僕はまだ夜と朝を繰り返すのだから・・・。