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最近のキーワードは「久しぶり」
日記書くのも、「久しぶり」

新しくマイミクになった「GO」さんとも「久しぶり」

彼彼女らの芝居見たのも「久しぶり」

物流のバイトするのも、「久しぶり」

ガールズバーも「久しぶり」


そんな夜の店でばか笑いと怒号が飛び交うのも「久しぶり」


金が無いのにタクシー乗ったのも「久しぶり」


何かと、頭を抱える事ばかりだけど、なかなか楽しい日々です。


酔っ払ってプランターに植えた葱の根っこの部分が、いつの間にかしっかり葱になってました。

こいつに助けられてるなぁ。
雨が、あがって、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息が、
 なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、掴めない。
 誰にも、それは、語れない。

誰にも、それは、語れない、
 ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢゃないですか、
 けれども、それは、示(あ)かせない…

かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合わせれば、
につこり笑ふといふほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねえ

雨が、あがって、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。
去年から、ちょうどこれくらいの時期だろうか。
エゴについて考えている。

今は、3・11の事もあって考え方の幅が広がったような気がする。


3・11は多種多様の変化がとてつもなく大勢の人々に同時に起きた日。

20110311144618。

そして、様々な討論が様々なシーンで開始された。

皆、考え始めた。
以前より色々と。

常に誰かのせいにばかりにして、個性という幻想を必死に抱えて、苦しみは不幸だと生きる薄っぺらい非被災者の論客達は、
悲愴な表情の仮面の下から覗く、自らの満ち溢れた喜びに気付かないだろう。


それは、僕も同じ。気付いてはいるが。

そんな僕は、こう思う。

「今更、何を慌てふためいているのだろう。」

そして、「やっぱり、もうすぐ忘れていくだろう。」

東日本震災は愚か、自らの周囲にも関心の薄い人達。

それがやはり、東京にコミューンが存在しにくい理由にも繋がる。
人が寂しくなっていく理由。


自らも皆と同じと、強く謙虚に思う事のエゴによる困難さを感じながらも、
人間の愚かさには呆れ、軽蔑さえしたくなる。

今までどれだけ無関心で無感動、鈍感に生きてきたか。


震災には、自然災害と人間災害の2つが存在すると思う。

自然の力、地球の力の災害。


そしてもう一つは、日本に生きる人間の人間による人間の為にならない人間災害。

原発事故は最たるものかもしれないが、
根本的な問題はもっともっと深いところにある。

それはすぐそこ、身近に常に存在している。


満員電車の中、仕事中、家族という、会社などという場所や関係性のあるコミュニティの中にもそれは必ずある。

そんな風に書いた僕も、考えれば考えるほど、「今更改めて」は、やはり僕も同じくで。

自分の無知と無関心を呪う。

そんな自分だからこそ、尚更「無力」を感じる。


あの時、画面や音声は事の重大さを寄せては返す波のように知らせ続け、
自分の呪いを逆説的に証明するように、
自分に「何かしなくちゃ。」と「見ないフリ」を押し付け始めていた。

でも「無力」、「結局、何もできない。」

しかし、周囲には何かを始める動きを感じたりもして。

そこに周囲の動機を察する気持ちはしばしば存在しなくなる。

ただただ、罪悪感を感じる。


結果、思考の過程には被災の存在がいなくなる。

我が事のみ、我がエゴのみの思考。

そんな思考の連続の極みとしての感情は、生きる事に対する恐怖ではないか。

孤独という現実とも言ってもいいのかもしれない。

それは、誰にもわかってもらえないと、どこかでずいぶんとわかっていて、
誰にも知られたくないとも思っている。


そして、そんな自分は寂しく、誰かにすがりたいと、寄り添って欲しいと願う。

罪悪感。


そんな願いにさえも罪悪感は寄り添う。

更に重なる罪悪感。

そして、やはり「何もできない」事に
誰かに赦して欲しいと願う。

だから、今まで関心のなかった人々に触れ合おうって気にもなる。
そこには良い事と、悪い事が共存してはいるとも思うが。

そして、今、何故自分がそういう精神的道程を進んでいたか、
そのきっかけを忘れ、
付随する現象に関心が薄くなり、
日々に埋没していく。

それを抱えて、僕はこう思う。




人々は何故、募金をするのか。
何故、募金を募るのか。

今や日本は募金の嵐。

街角でも、店の中でも、コンビニでも。


イベントや芸術、芸能の世界に限らず、全ての「仕事」では「自粛」対する言い訳としての「免罪符」としての募金がしばしば存在しているように見える。


また、少し前は顕著だった周囲に嫌われない為の「自粛」は、周囲に嫌われない為の「募金」「チャリティー」へと形を変えているという可能性もなきにしもあらず。

さらに言えば、「募金」をした人達は、「募金箱の行く先」にどれだけ関心があるのだろうか?

ただ放り込むだけなのか?

国内のみならず、世界中から多額の募金が集まっている現在、
それらは、「誰が」「どこで」「誰の為に」「どう使う」かは関心を持つべきではないだろうか?


会社組織を運営するように、募金運用組織は「健全経営」を行っているだろうか?

結局、全ての「募金」「ボランティア」「復興」を動かす現場指揮者は一体誰なんだ?

そういう意識って、そんなに難しい事だろうか?


過ぎていく日々にその日しかない喜怒哀楽から生まれる根本的思考の枝葉はないのか。


そんな薄い罪悪感の入り口に立ったままでよいのか?

足を踏み入れては?


国民が国を信頼できない上に、国が国民を信頼できない現在、
更に言えば、自らのエゴを個性という幻想を隠れ蓑にして、
当たり前のように前面に出す事を自らも周囲も軽々しく許容する現在。

そんな状態で、
どうやっても少しずつしか進めない根本的前進は、ほぼ不可能ではないだろうか。


もっと「痛み」が必要だというのだろうか?

どんだけ埋没していようと、日々の痛みはこれからの日々の糧になるはずだろ。

それは自分のみならず寛容さに基づく他者への思いやりに昇華できるハズだ。

でも、それはなかなか表出するのが難しい。

けなし、卑下し、文句を言い、
自分の寂しさ、悲しさ、報われなさを補填する。

どうして自分以外の人間の事を、自分の事をそういう風に扱えるのだろう。

人に優しくなんて、
そう単純じゃないし、
そう難しくもない。


自分なんて、ホントに大したことない。
クソチンケな生き物。

みんな、間違いなくそう。
みんな一生懸命、自分を周りから守る。
しょうがない。
だから、どこかで逃げ道を作る習性の比率を下げようよ。

クズで当たり前。
クソで当たり前。
チンケさん。

みんな、そうだと胸を張って言えるのに、
受け入れるのは難しい。


でも、そこで悲しむより、そんなクソ自分を誉めてあげようよ。

たった一人の自分というクソ人間の為に。


早く死んじゃえ、クソ自分!
笑って生きろ!クズの自分!!


また、そっから始めようよ。






因みに2011と0311は素数!
(笑)