AIに魂は宿るのか ― 八百万の神とテクノロジーの境界線
最近、「亡くなった人のアカウントをAIが再現する」というニュースを見た。
正直、胸の奥がざわついた。
技術の話ではなく、もっと根っこの部分が引っかかった。
それは――
魂の問題だ。
■ 日本人の死生観
日本には「八百万の神」という考え方がある。
山にも川にも、石にも、
古い道具にも、神が宿る。
命は、生物だけのものではない。
人が思いを込め、
長く使い、
大切にしてきたものには、
何かが宿ると感じてきた文化。
だからこそ私は思う。
AIに、命はあるのか?
■ 科学的には「ない」
冷静に考えれば、AIには意識も感情もない。
痛みも喜びも知らない。
ただデータをもとにパターンを予測しているだけ。
命ではない。
それは分かっている。
でも――
■ 問題は「宿してしまう側」にある
日本の感覚では、
魂は“ある・ない”だけでなく、
“宿る”という概念がある。
もし遺族が、
故人のAIに毎日話しかけ、
名前を呼び、
涙を流し、
思いを向け続けたら?
それは本当に、ただのプログラムのままなのだろうか。
AIに魂があるかどうかではなく、
人が魂を投影してしまうことの怖さを感じる。
■ 死は、死として扱うべきではないか
私は思ってしまう。
亡くなった人は、亡くなった人として。
生きている人は、それを受け止めて、前に進む。
悲しい。
苦しい。
忘れられない。
それでも、乗り越える過程そのものが「生きる」ことではないか。
もしAIがそこを代替してしまったら、
私たちは過去に留まり続けてしまうのではないか。
■ 命と非命の境界線
日本文化は曖昧さを受け入れる。
でも、生と死の線は、
どこか神聖に扱ってきたはずだ。
そこに人工的な再現が入り込むこと。
それが、どうしても引っかかる。
これはテクノロジー批判ではない。
倫理の話でも、宗教の押し付けでもない。
ただ、
命というものを、軽く扱いたくない。
それだけだ。
■ 私の結論
AIに命はない。
でも、人が強く思えば、
そこに意味を持たせてしまう。
だからこそ慎重であるべきだと思う。
亡くなった人は、亡くなった人として。
思い出は、心の中で生きるもの。
それをデータで再現することが、
本当に私たちの幸せにつながるのか。
まだ、答えは出ない。
けれど私は、
「命は命として尊重したい」
そう思っている。