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団藤保晴さんのブログをみつけた.
ブログ時評
http://dando.exblog.jp/

比較的早い時期から,ネットを使って活動していたひとらしい.
自分は,田中宇さんの国際情勢を読み始めた頃にたまに読んでました.

相変わらずの旺盛な執筆活動をしている!
しかも,映画,大学,スポーツ,科学技術と幅広い.
お世話になりまーす.

読むだけじゃあなくて,自分も書いていかねば...




ロンドンの大学の危険度

イギリスで学ぶアジア系学生として,あまり聞きたくないニュース.
●Anxiety in the UK
http://education.guardian.co.uk/students/overseasstudents/story/0,12743,1407669,00.html

ロンドン大学ロイヤルハロウェイ校で韓国人学生の女性が,大学のトイレで殴る蹴るの暴行を三人(男一人,女二人)から受けたこと,アジアからの学生に不安や対策の不備を指摘する声を集めている.

ここみたいな田舎の大学だと実情は少し変わってくるのだけど,ここ数年で明らかな傾向として考えられるのはアジア系学生の増加だろう.イギリスの大学は,EU外からの留学生(3倍ぐらいの授業料)がこないと財政的に厳しいくらいだ.そういうこともあって,留学生がどんどん増えているらしい.

アジア系学生の多さは,おそらく十年前と比べてもかなり違ってくるんじゃないかと思う.それに比べると,イギリス人にとってのアジア諸国がどんなところかなんて認識は相対的に低くなっちゃうのかもしれない.そして・・・.

サッカーの英国代表とかにアジア系の選手がでてくれば状況が変わってきたりして...うーん,とても時間がかかりそうだ.

そういえば,ここWarwick大学は,シンガポールにキャンパスをつくる話が進んでいる.学生獲得に躍起になっているともいえるけど,前向きに考えれば良い話だと思う.雇ってくれないかなぁ.(結局それかい!)


The Myth of Scientific Literacy

Shamos, M.H. 1995. The Myth of Scientific Literacy.

ずっと読まなくてはならないなぁと思っていた本.パラパラめくってみる.
科学リテラシー(少なくともアメリカの文脈では)が「wishful thinking」にすぎない,と断言しているところがすごい.

しかも,著者自身は物理学の教授だったり,理科教育や教科書づくりに携わっていたり,その人生を科学にささげてきている人なところがこの主張の過酷さを物語る.

アメリカの80年代のscientific literacy movementがいかに失敗に終わったのかという証拠として貴重な記録か.いや,アンチ巨人も巨人がなければなりたたないように,これも一種のイデオロギーの表れなのか.同時代の教育改革や社会運動の一側面としても参考になるかもしれない.

社会構築主義

またまた内田先生のブログ.何度もトラックバックするのもおこがましいのかもしれないと思いつつも,構造上トラックバックする方が礼儀正しいのだということにしてしまう.

上野・上野対立(まだ論争ではないから)の要約を興味深く拝見する.
そして,先生の指摘する社会理論の限界,あるいは社会構築主義の落とし穴が,まさにどこかで見た風景,デジャブーであることに気づく.

それは,主にアメリカで90年代にアカデミズムをも揺るがす事態に発展したサイエンス・ウォーズだ.日本でも,金森先生の「サイエンス・ウォーズ」やソーカルらの「知の欺瞞」とかで知られているが,私の理解では,サイエンス・ウォーズにおいても,社会構築主義者は「ドグマ化」の罠にはまってしまったのだ.あのときにアメリカで失われてしまった社会構築主義への信頼の代償は,案外大きかったのかもしれない.(そんな研究している人いるでしょうか)

すこしでも社会構築主義的な視点・仕事をする者は節度を持たなければならない.

科学戦争従事者でもあったスティーブ・フラーの言葉にすると,The Principle of Humilityである.セットになっているもう一つを明記しておくと,The Principle of Epistemic Fungibility.つまり,真実なんて替わりうるってことです(意訳しすぎかもしれません).

そういうことで,私にとって内田先生は社会認識論者になってしまうのであります.

参考資料
Fuller, S. Science, Rhetoric and the End of Knowledge.

The Vanity Fair

原作は同名の19世紀の小説.舞台は19世紀初頭.

ある意味とてもブリテッシュ・エンパイヤーな映画だった.
もちろん,現在のではなくて過去の輝かし頃の.

外国人なので完全にはわからないのだけど,
イギリス人にとってこの種の映画は,日本人にとっての時代劇みたいななのかなぁと思ったりした.

主人公が初めて仕えた家は,なんか見覚えがあると思ったが,
おそらくコッツウォルズに行ったときにみたところだ.
あと,当時のロンドンがでてくるのだが,時代考証がどれくらいしっかりしているかしらないけど,なかなか興味深かった

イギリス映画研究なんかする人は,必見.(そんな人知らないけど)

WSF

第四回World Social Forumがブラジルのポルト・アレグロで行われている.
WSFは,スイスのダボスで行われる先進国の首脳やビジネス界のリーダー達が集まるWorld Economic Forum(だったかな)に対抗してはじまった.傲慢なネオリベラリズムや自由貿易に反対する,オルタナティブ・グローバリゼーションを標榜している.毎年開催のフォーラムを重ねるたびに参加者・参加団体が増え,なかなかの盛り上がりを見せている.ガーディアンとかでも取り上げられているけど,どうなってるんでしょう.とちょっと思っていたので,別件で論文検索していたときに目についたものを読んでみる.

Geoffrey Pleyers. 2004. The Social Forums as an ideal model of convergence. UNESCO.

前半は,「多様性を尊ぶ」ことの重要性がSocial Forumの肝みたいなことが書いてある.でも,一番目にとまったのは,SFは'non-deliberative' space(非審議空間とでも訳せるか)だといっているところ.私なりに,要約すると「フォーラムは,しょせんいろいろ議論しているだけなんですよ,なにを決めるってわけではないんですよ,とりあえず誰でもきていいですよ(inclusive),ってところが重要なんですよ」という主張だ.ちょうど,社会理論とか政治理論の世界でいわれている「deliberative democracy」とか「public deliberation」とかを読んでいて「そうですか,考えるってことが大切なんですね」って思っていたところだったので,ちょっと面食らってしまう.

でも,常識的に考えても何千の団体がいろんなこと(いくつか大きなテーマはあるものの)を主張しているのをまとめるっていうのは,はっきりいってムリがあるだろう.Deliberative democracyとかは,結局は政府がどうあるべきかみたいな議論だから「次元」が違うのかもしれないし.だから,convergence(集中,一点に集まること,収斂)なのね.

あと,WSFが大きくなることで,まとまりがなくなってきていることとか,運営が難しくなってきていることとかも指摘されていた.多様性を標榜した集まりっていうのも難しいものなんだろうなぁ.でも,論文が「living together with our differences」で締められているいるように,多様な中でどういっしょに生きていくのかということは,身近な人とだって遠い国の人とだって,そう変わらない.そう思うと,とりあえず一緒にすごすっていう方針は間違ってない気がしてくる.

たんなる洒落だけど,WSF,菅平にある「ダボスの丘」でやってみるっていう企画はどうでしょう?
いや,もうやってる人がいるかもしれない...

首大と大学

もう数日たってしまっているのだが、いつも楽しく拝見している内田先生のブログへ初トラックバック。首都大学東京(通称「くびだい」)について。

内田先生は、都知事と新学長の発言を引いて、歯切れの良い批判を敢行されている。自分も首大のいきさつについては「なんとなくいやだなぁ」とは感じてはいたものの、引用部分を読んでいたら、嫌悪感を通り越して愕然としてしまった。

いろんな意味で、首大の行く末が面白くなっていく(自分も含めた、ほとんど野次馬の立場の人たちにとってはいっそうのこと)のだと思うが、その他の大学の大学生や大学人にとって、そして人生の一時期を大学で過ごす人間が多いこの社会にとって、この問題は対岸の火とばかりもいえなくなる可能性が高い。そういう意味では、内田先生が講演された「文部科学省の高等教育再編構想と大学の機能分化について」の方がもっと気になってしまう。

ちなみに、イギリスでも高等教育改革はかまびすしい議論が展開されている。もしかしたら、いろいろと閉塞感の高い先進国の為政者たちは「市場化の最後の砦である大学(Fuller)」をいじくることで、ひょっとしたら何とかなるんじゃないか、みたいな考え(というよりも祈り?)をもっているのかもしれない。大学は変わっていくべきだとは思うけど、どんどん悪くなって行くような気がしてならない。

ああ、ここでも「自己成就的予言」がひそかに進行してしまっている。

過去の社会学博士論文をいくつか

午前中、大学の論文が保管してあるところで過ごした。
過去の論文は、図書館ではないレコード・センターにおいてあり、いちいち申請しなくてはならないのだ。

社会学部のD論を適当にしらべて、目についた三つを持ってきてもらう。
手にとった一つめは、香港の中学校におけるcitizenship教育について。
返還の前に書かれているから、かなりホットだったのだろう。先生とか生徒とか、たくさんインタビューしている(42人)のを見て、かってに焦る。結論までは、読まず。

二つめは、civil disobedienceについてのとっても理論的な論文。
ロールズとか、ハーバマスとか、ドゥオーキンとか。
ちょっと、自分のとは方向性が違うみたいだけど、気になる文献をメモ。
ある状況下においてはcivil disobedienceが社会の権利だといえる、という主張は、なんとなくうなずける。こないだみた映画のは、行きすぎだったけど、「なんか変!」と声を上げようとするのは、当然のことだと思う。でも、ちょっと声を上げようとすると、「何やってんの?」っていう圧力がかかるんだよなぁ(日本語でいうところの「世間」)、たぶん。だから、なんか意固地になって過激な方、怪しげな方、にいっちゃったりするんじゃないだろうか。

そして、三つめは、genetic informationと生命保険の関係についての論文。去年書かれたばかりの新しい論文。これが、一番役に立ちそうなので、とくにResearch questionsとMethodologyのところをしっかり読む。体裁がしっかりしていれば、結構言いたい放題できるのだということに気づく。自分のデータのまとめりのなさが、気になるものの、自分もなんとかいけるんじゃないかと感じ、明るくなる。でも、最後にcitizen's juryを持ってきて終わらせちゃうのは、いかがなものか・・・。いや、自分も最後になにか持ってきて、まとまらせればいいのか!(とまなぶ)。

ここ二週間ぐらい、「書くの、絶対ムリ」って思ってたから、早くここに来ればよかった。と、とりあえず気もちは上向き。

Good Morning Night ★★★

1978年のイタリアで、赤い旅団(Brigate Rosse)といわれる過激派によって大統領が誘拐された実話にもとづいた映画。ストーリーは、主に過激派メンバー4人の中の女性の視点を中心に、メンバーそれぞれの思いや葛藤、恐怖、戸惑いが描かれていく。派手なシーンはなく、淡々と進んでいくのだが、緊張感が途切れることがなく、最後まで見入ってしまった。また、安易な対立軸を設定せず、細かい心理描写や挿話など丁寧につくっているところも良かった。それによって、この映画の訴えたいことがより普遍的になっている気がする。

日本だって、同じような境遇になった人たちがいた。二年前くらいに、元日本赤軍メンバーの獄中手記のようなものを読んだことがある。こんなにも社会を思っている若者がどうしてそんなことになってしまったのだろうか、と読んでいる自分も書いているその人といっしょに思い悩んでしまうような内容だった。 私は、コミュニズム=ソ連=暗いという安直な等式を持っていた(刷り込まれていた?)ので、この文章の衝撃は大きかった。

ほんの数十年前に、赤だの何だのといって多くの人の血と涙が流れたことについては、なんで自分はこんなに知らなかったのだろう。知らなかったのは自分だけなのかもしれないが、イタリアにしろ、日本にしろ「どうしてああなってしまったのか?」ということをもっと省みられるべきなんだろう。だって、「わたしはこっち、あなたはそっち」っていう線引きの思想は、ほぼ同じ構造で続いているような気がするから。

科学コミュニケーションのまとめ

今日は、Science communicationについて、主に英語の文献を参考にしつつまとめてみた。友人が企画した、あるミーティングで使ってもらおうかと思って作成したのだ。結局うまくまとめられたとはいえず、いくつかの文献という感じになってしまった。ミーティングの導入として使えるかどうか?あとは、ファシリテーターの友人に一任。ボツになるかもなぁ。でも、参考にはなるハズ。

いまになって気がついたことでもないのだが、あらてめてScience communicationが謳われている文献をならべてみると、どの文献もthe public(公衆と訳されることが多い)が重要なポイントになっていることがわかる。(自分の関心や資料の集め方が影響しているともいえるが)

このことは、もしかしたら科学コミュニケーションとして日本語に訳されてしまうと、抜け落ちていってしまうところかもしれない。もともと、パブリックという概念をどう訳していいものか、そして自分ですらこの概念を理解しているのかと不安になってしまうくらい、日本語にない考え方なのだから、無理もないかもしれない。

公衆といわれてすぐ思いつくものは、公衆電話と公衆便所だし・・・。

とにかく、「科学」も「コミュニケーション」も「パブリック」も、よく使われる言葉だけど、なんとなくしっくりこない。どう表現したらいいかわからないけど、どうしてもこういう言葉は、それを使う人たちの心がこもらないというか、責任が感じられない気がする。

それは、輸入言葉を使っている日本語の問題なのか、もっと普遍的な問題なのか。

おそらく、後者のような気がする。
そして、ここでは「ヘゲモニー」がなんとなく重要な気がする。
グラムシを近々、読まねば。