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「対称性人類学」の連れていってくれた場所はどこだったのだろうか

ナカザワ氏の本は,読む者をいろんな所へ連れていてくれる.細かい部分の確からしさとか,論理の辻褄とか小さいことを気にせずに,大きなスケッチで描いている.まるで,アーティストのよう.だから,読み終わっても,なんか解ったような気がして,何が解ったのかが説明できない.旅行したのに,その場所がどこだか覚えてないような気分.

勝手に解釈したところを,自分の知的レベルに合わせた言葉で文章化してみる.

●無意識は「暗い」と思われてるけど,実はかなり「いけてる」らしい.
●キリスト教は「うまい」けれど,仏教は「えらい」.
●貨幣を通した交換は一元的で「つれない」だけど,
思いの入った贈与は多元的で「おもしろい」,返礼を期待しない純粋贈与は「かなりすごい」らしい.
●「生の衝動(エロス)」も「死の衝動(タナトス)」も両方あるのが「フツー」なことであって,ホントの幸せのためにはタナトスが欠かせないらしい.
●ナカザワ氏は,宗教としての仏教には興味がないけれど,対称性人類学の先駆者としての仏教にはとても期待しているらしい.
●非対称性に支配された資本力主義経済から新しい経済原理を生み出すために,「超実数」が要になるらしい.それが精霊,天使の役割を果たしてくれる!?

<メモ>
バイロジック(贈与<対称性> ⇔ 交換<非対称性>)
<一>の覇権(キリスト教,産業資本主義,国民国家)
無意識(神話の知恵=分裂症の妄想)は隠された知性の流動性知性
原初的抑圧
キリスト教は「不条理を論理化する仕組み」
仏教(「法界」一瞬にしてすべてを知る,自生がない→お寺の石庭)
幸 さ・ち(境界性・霊力)
超実数,無限小=精霊,天使
贈与,純粋贈与
無意識のおこなう対称性=高次元性=流動性=無限性をひめた潜在能力

日本マンガ原作の韓国映画「オールド・ボーイ」

カンヌで賞を取った(っけ?)オールド・ボーイをみた.
おもってたよりも,かなりえぐい.
予告編ではそんなことはおくびにもださないんだなぁ.
以上.

「先生はえらい」と「対称性人類学」

どちらも売れっ子先生による著書.ドイツでお世話になった友人の親に持ってきていただいたのだ(家族ぐるみの友だちはありがたいっす).早速,読みはじめる.まだ,対称性の方は後半の仏教の部分を読んでいるけれど,私流に一言でまとめてしまうと,

前者の言いたいことは,「コミュニケーションは誤解があってこそ」
後者の言いたいことは,「私はあなたで,あなたは私」

これだけでは,何を言っているのかわからないけれど,この両方の言い分は,「多元的解釈を許容するという点」,そしてそれが「人間の根源的な様相なのだと主張する点」で見事に一致しているような気がする(というのも,また多元的な解釈うちの一つに過ぎないのだが).こういう本を選んで,しかもかってに一からげにしてしまうところ,人間って自分を納得させるために本を読んでいるのだなぁ.

どちらの主張も検証が必要な点もたくさんあるのだとは思うけれど,私は大筋のところでは,「多分そうなのだろうなぁ」と賛成なのである.人は,「理解」という病や「私」という病に冒されすぎているのかもしれない.「理解」したと思っていることや,「私」だと思っていることが,どれだけ不確かな根拠に基づいているかということを思い知ることが,ゆくゆく大事になってくるのだよ.とウチダさんもナカザワさんも言っているのだ(と思う).対称性はまた読みおわってからエントリーします.

ところで,ナカザワさんはブリューノ・ラトゥールの"We have never been modern"に大きな影響を受けたみたいな事を言ってますよ.何回か授業で読まされた事があるのに,ほとんど記憶にないっす.1989年で時代は変わった.って言ってたことぐらい・・・・それは,たしか一行目・・・・イントロだけでも読みなおそっと.

チリパウダーでイギリス史上最大のリコール騒ぎ

●Food giants told: clean up or face prosecution

チリパウダーに発ガン性のある染料が混入していたことが発覚して,かなりの騒ぎになっている.インドで製造されたチリパウダーが,イギリス国内で転売される内に,禁止染料が入っていることに気づかずに多くの食品に混入してしまったらしい.数百にのぼるというから,被害は甚大だ.転売でっていうのは,大学で中島貴子先生の授業で習ったように,「森永砒素ミルク事件」と同じ構造!今回のケースは,すぐさま人体に影響がっていうレベルの話ではないみたいだけど,ポストBSE時代において,食品産業への信用がまた一つ下がってしまったのでしょう.取り締まり強化だなんのっていっているけど,それだけでは,この構造は変わっていかないと思うのだけどなぁ.もう安全な道は,自分で育てて食べるしかないですな.

サイコムのメルマガにのせるの忘れてしまいました.そちらもよろしく.

美容師M

Mが亡くなったことを,母親からのメールで知る

葬式に参加することもできなかった.
Mは小学校時代の同級生だ.六年間クラスが一緒だった.通学路もほぼいっしょだった.でも,卒業後は一度も会っていない.

共通の知人(彼の幼稚園の同級生で私の中学の同級生)を通じて,五年前くらいに美容師で活躍していることは聞いていた.好奇心は旺盛だったけど,学校教育というものに全くなじめていなかった彼が若くして人気の美容師になっているということを知って,かなり嬉しかった.

いつか会いたいなぁと時々思うことはあったが,もう少し歳をとってからでいいだろう,そして,自分も彼みたいに何者かになってからでいいだろう,と勝手に考えていた.

もう一人通学路が一緒だったSなどとピンポンダッシュをしたことや虫を捕まえたこと,水泳の着替えで異常に恥ずかしがってたことや五年生ごろにいきなり背が高くなってきたこと,変なダンスを教えてくれたことや,手笛の吹き方を教えてくれたこと・・・もっともっと話せることがあったはずだ.

でも,その「いつか」はもう永久にこない.

雪のデュッセルドルフで生のビジネスを垣間見る

イギリスもドイツも雪です.

というのも,昨日,一昨日と,デュッセルドルフで行われたEuroShopにいってきました.
知り合いの父上が来るということで,通訳をおおせつかったのです.
役に立てるのかなぁと不安に思いつつ,渡独したのですが,ドイツやスイスという英語のネイティブの人たちでもなく,もともと付き合いのあるパートナー同士の話合いだったので,話しが通じやすく,自分の大きなミスもなくなんとか役目を果たせました.

月並みですが,ビジネスといってもただの「売り買い」じゃないのだなぁというところが垣間見れました.人と人の交流はもちろんのこと,アイデアの交流がここまで相互作用的にあるとは!おそらく,友人の父上が築いてきた信頼関係があるからこそだったのでしょう.

カズオ・イシグロとクローン

●Living memories
http://books.guardian.co.uk/review/story/0,,1416858,00.html

ガーディアン紙のReviewは,毎週末,「これは!」っていう人のインタビューがのっている.こないだは,大江健三郎なんかもでてた.今週は,イギリスで一番有名な日本人(実際はイギリス国籍で,日本語もあまりうまくないらしい)である,カズオ・イシグロ.写真もかなり渋くてグット.話のほとんどが,彼の生い立ちやこれまでの少ない作品の評価についてなのだけど,来月発売の新しい小説の"Never Let Me Go"は,なんとクローンをテーマに扱っているらしい.でも,この記事の最後に引用されていた,この部分のコメントを読む限り,クローンという題材をとりながらも,それより大きな問題を考えようとしているらしい.

Just as Ishiguro's earliest novels were taken by reviewers as studies of Japan, his latest book, Never Let Me Go , has already been tagged as sci-fi because of his use of clones. "But there are things I am more interested in than the clone thing," he says. "How are they trying to find their place in the world and make sense of their lives? To what extent can they transcend their fate? As time starts to run out, what are the things that really matter? Most of the things that concern them concern us all, but with them it is concertinaed into this relatively short period of time. These are things that really interest me and, having come to the realisation that I probably have limited opportunities to explore these things, that's what I want to concentrate on. I can see the appeal of travel books and journalism and all the rest of it and I hope there will be time to do them all one day. But I just don't think that day is now."

*24日にアップしました

科学者は「引用」されていればそれでOKなのか

同じ日付で,科学研究に関する対照的な新聞記事.
まずは,英紙ガーディアンの論説.

●Careless science costs lives: The public is wrong to regard all profit-driven research as suspect
Dick Taverne 

Sense About Scienceという団体の代表のディック・タバーンが,研究で金をもうけてるから信用しないという人たちは間違っていると主張(人々は企業よりも政府,政府よりも環境NGOで働く科学者の方を信用するという調査をひきつつ)する.科学は「価値中立」なんだから,背景にどんな思想や思惑があろうと,たくさん「引用」されていればそれで「良い科学」なんだそうだ.「悪い科学」の例として,レイチェル・カーソンを挙げているのにはびっくり.いわく,DDTがガンや肝臓障害を招くというのは科学的に立証されていないのだから,カーソンの仕事は,DDTで防げたマラリアを野放しにして,多くの命を失わせた「悪い科学」なのだと言い切っている.これってホント?ケンカを売ってるだけの感じがするし,科学イデオロギーの押し付けだってすぐ思われちゃうだけじゃないかなあ.

対照的だったのが,THESという高等教育専門の新聞の特集記事.ここでは,「引用」のネガティブな側面が中心テーマ(だと思う).

●You call yourself an intellectual?
Steve Fuller (18 February)

哲学者,科学論者,社会認識論者,スティーブ・フラー.相変わらず,何を言いたいのかつかみづらい文章ですが,私がみたところ,現在のインテレクチャルが(特に,自然科学者),いかに「引用」されるかということが評価の中心になっていることの弊害を指摘したいようです.いわく,

The basic idea is that the more often your work is cited, the more important it is considered. To the intellectual, the problem with this practice is not what it says about the relatively few who receive the lion's share of citations - but what it says about the many more who prop up these market leaders by citing them so much. It fosters a dependency culture whereby academics are rewarded for feats of ventriloquism, that is, an ability to speak through the authority of others. The result is institutionalised cowardice.

institutionalized cowardiceってどう訳すんでしょうね.「制度化された臆病」とか.でもって,この最大の欠点は,こうした評価の軸に入ってこない仕事が当然のことながら生まれてこないことだといっている.例えとして,20年前にシカゴ大学のlibrary scientistだったDonald Swansonが,難しい病気を治すには,一つの新しい「画期的な」研究にお金をつぎ込むよりも,様々な分野の過去の研究を横断した方がいいのではないかという主張(後者のことをSwansonは"undiscovered public knowledge"とよぶ)を紹介している.

おそらく,こうした考えも彼の主張する「社会認識論(者)」や科学論者,分野を越えていく人たちの重要性の論拠になってくるのだろう.巷で謳われるようになっている科学コミュニケーターも,ここまで踏み込んで,知識の政治学を論じ,実践して研究活動に関わっていけるぐらいになれるといいのだと思う.そういう意味では,科学論なり科学コミュニケーターなりを実践する人たちの自律性の確保が重要になってきそう.

Tavernの主張は,反科学にムキになって反論していて,ダイコトミーにはまっちゃっている感じがするが,逆にFullerの主張は,現実的に「引用」重視の科学者社会(それは自然科学だろうと社会科学だろうといっしょ)にも,見落としているところがあるんじゃないかなぁ,っていう提言なんだろう.

The Intellectual, published in March by Icon Books (£10.00). ここでもう少し詳しく書いているのかな.

ドキュメンタリー映画の近年の盛り上がりについて

土曜日は,朝の11時から午後の3時半すぎまで,大学のアーツセンター主催のフィルムトーク.うちの大学のアーツセンターは,かなり良い映画をやってくれる「独立系」.とてもありがたいし,我々の誇りです.(でも,学生よりも地元住民に人気があるみたい)今月のフィルムトークは,近年のドキュメンタリー映画の盛況ぶりについて+プレビュー一本.これは,見逃せない!と一人でいってきました.

University of West England(ブリストルにあります)のMichael Chanan教授がスピーカー.(あの風貌では,だれも教授だとは思わない!)最近のドキュメンタリー映画の盛況ぶりや,昔との違い,身の上話など,かなりたのしめました.バフチンとかハーバマスとかを入れ込もうとしているところが,カルチュラル・スタディーズの教授ぽかったっす.

それにしてもたくさんのドキュメンタリー映画(あるいは,ドキュメンタリー調の映画)があるのですねぇ.マイケル・ムーアの映画をはじめアーツセンターのおかげで自分でも結構見てる方だとは思ってたけど,まだまだたくさんあるんです.イスラエルの映画とかイギリスでは公開されてないみたいだし,世界は広いっす.Chanan教授の映画もみなければ.フロンティア精神が焚き付けられます.

で,こんなにも多くでてきたのは,やっぱり制作費がかからなくなったこと.デジタルカメラの登場です.Chanan教授が言ってたのでおもしろかったのは,彼も80年代までテレビで仕事をしてたらしいんだけど,今になってはアカデミアにいたって作品づくりはできちゃうから,テレビに戻るなんて気はさらさらない(I never thought of TV)って言ってたこと.日本の森さんに言わせてもそう言うのかなぁ.

話の中で一番おもしろかったのは,70年代ごろのドキュメンタリーは「コミュニタリアン映画」だといわれていたいくらいだったけど,いまはそういうわけでもないっていうポイント.そして,映画が何か答えを用意しているわけではなくて,問題を提起する手段になっているということ.ある映画監督が,配給先から電話がかかってきて,「観客が出て行かないんで困る?(the public is not going)」っていわれていったいどういうことなんだっていったら「観客が映画観から出て行かないで,討論しはじめちゃったよ」っていう逸話を紹介していた.

ドキュメンタリー映画がよりリアルだとはいいきれないのだけど,ドキュメンタリーを見に来る人っていうのは,「リアリティ」ってなんだってことにこだわっているのかもしれないって思う.ドキュメンタリー映画を見る人はテレビを見る時間が少ないっていうデータ(@ウェールズとアイルランド)もあるらしい.

これは,森達也さんもどこかのインタビューでいってたけど,「ドキュメンタリーもすでにポリティカルだ」ということを最後に言っていた.「生活世界(ハーバマス!)っていうのは自覚的にしろ,無自覚にしろ,オーソリティの政治的な力に支配されている」といっていた.支配されているかどうかは微妙だけど,たしかにいろんなパワーに絡まっちゃっているのは確かなんだろうなぁ.らんぼーにまとめちゃえば,これも社会構築主義だよ.でも,ドキュメンタリー映画がかっこいいって思うのは,そうした世界に主体的に・相互作用的に関わっていっているってこと.アカデミズムもうごきださなくちゃいけない.いや,動き出していると考えよう.

フィルムトークの後半は,The Yes Menっていう映画のプレビュー.これがまたすごいドキュメンタリーだった.簡単にいうと,アメリカの若者がWTOの代表になりきって,それが真に受けられちゃうっていうドキュメンタリー.テレビにでちゃったり,学会で発表したり,議会でとりあげられちゃったり!いやー,笑った.でも,それでいて深ーい深ーいシニシズムも溢れてるのです.日本でも是非上映してほしい!また,the yes menの二人との質疑応答など,別エントリーで詳細を紹介します.

知識の「集約」から「再分配」へ

お手伝いしているメルマガの編集後記に載せてもらったメモを補足してブログにアップします(メルマガ発行人に了解済み).先週のニュースなので,今週も関連ニュースがありますが,すこしだけ追加しています.(◆意見●ニュース▼ニュースの一部or要約)

>>本文<<
◆イギリスで,学術情報の公開について,政府・議会で議論がなされているニュースがありました.イギリスは,オープンソース化に向かっている雰囲気です.一部の大学では,教員の研究成果に無料でアクセスできるようにシステムを整えているようです.また,生命医療研究では世界最大級の研究助成財団であるイギリスのウェルカム財団もオープンパブリッシングについて積極的です.

●Open access moves a step closer
http://education.guardian.co.uk/higher/research/story/0,9865,1403747,00.html

◆EU・アメリカでも同様の議論がなされています.(先日,NIHがオープンソース・パブリッシングをすすめることを表明したそうです@The Economist) 欧州委員会は,学術情報の公開についてのレポートをまとめているところだといいます.Elsevierなど,学術情報の出版を生業としているところには痛い話なのでしょうが,社会にとって研究とはなにか,特に大学も含めた公共機関における研究は,どういうものであるべきなのかということを再考する機会でもあると思います.ちなみに,コンピューターの世界での「オープンソース」とは何かというまとめとして,下のようなブログも発見(内田先生の親友).

●オープンソースの現在(ヒラカワ・カフェ店主軽薄)
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/?ctgy=1

◆研究情報の公開において,ホットな話題は生物学的な情報の公開についてです.なぜなら,現在のところ,生物学的な情報は薬や作物の開発に直接つながりやすく,莫大な富を生み出す可能性があるものと思われているからです.そんななかで,オーストラリアからのムーブメントで,「オープンソース・バイオロジー」が始まるというニュースがありました.巨大製薬会社のあるアメリカやイギリスからではないムーブメントではないところが意味深です.

●「オープンソース・バイオロジー」まもなく始動
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050131305.html
▼生物学研究に関してオープンソースの方法論を提唱するオーストラリアの組織『バイオロジカル・イノベーション・フォー・オープン・ソサエティー』(BIOS)が、知的所有権を侵害することなく、生物学上のデータの取り扱いに関する制約を撤廃することを目指している

◆こうした問題は,知識の「集約」と「再分配」の問題とみることができます.これまで,研究活動とは,すなわち知識の「集約」のことだったと思います.特に近代型の大学や企業研究所においては,知識がどれだけ「集約」できるかが鍵となっていたと思われます.しかし,科学コミュニケーションの観点から考えるならば,集められた知識をどう社会に還元していくかという「再分配」の問題の方が重要になってきます.なぜなら,研究活動や経済活動が公的な側面を少しでも持つのならば(e.g.利益重視の企業も社会の損失になることをしていいわけではありません),知識を一部に「集約」するだけでなく「再分配」し,より広く使えるようにすることも望まれるべきだからです.また,社会へ知識を「再分配」していくことは,より健全な行為だと思われますし,結果的に社会の信頼やサポートを得ることにつながってくると思います.

◆世の中は,善人だけではないのだから,知識を無用に公開・再分配してしまうと,それを悪用しはじめる輩がでてくるのではないかという指摘もあります.とても重要な点ですし,そういう事が起きないような対策も必要になってくると思われます.しかし,それだけで知識を「集約」させるか「再分配」させるかという大筋の議論の本質を見失うわけにはいきません.また,一方で「集約」が悪しき独占で,「再分配」が麗しき共生だというステレオタイプも避けなければならないでしょう.

◆情報の「再分配」の問題とそう遠くはないニュースとしては,マイクロソフトが新しい検索エンジンを開始しました(MSN Search).全検索の42パーセントを占めるGoogleの対抗馬を目指すようです.ネットや検索エンジンの発達によって,研究のスタイルやそれを受け止める側との関係も大きく変わってきました.ブログもそうです.自分自身も,「ブログ的不安(郵便的不安のパロディー)」を感じながらも,なんとか情報の「消費者」で終わりたくないという思いがブログへ向かわせているのかなぁと思ったりもします.

◆生物情報や検索エンジンという各論からまた知識情報という総論にもどしますと,情報公開という問題と同時に早急に考えなくてはならないのは,「大学」の存在です.イギリスでは,すでに大学からスピンオフする企業の数も増えつつあり,新聞の株価欄やビジネス欄の話題になることも増えてきました.

●University skin venture sold for £5m
http://education.guardian.co.uk/businessofresearch/story/0,9860,1403832,00.html

▼話題の多いビジネスマン(controversial bussinessman)の新しいベンチャー会社York Pharmaが,シェフィールド大学からスピンアウトした皮膚病の薬の開発をする会社Melecular Skincareを買収.

●Uncle Sam's out in front, but we're hot on his heels:UK technology transfer is a late starter that shows every sign of being a great success
http://www.thes.co.uk/current_edition/(要購読)

▼イギリスの大学の研究費はアメリカの39%にすぎない|カリフォルニア大学のレポートによると,ロイヤルティーの半分は70年代の発明.過去十年のものは10%にみたない|マラソンランナーを短距離に転向させてメダルをとりにいけというようなものか|それでも,昨年は25を越える会社が設立され,10社が上場した.良い兆しが見えてきているのではないだろうかという結語.

◆ニュースだけを見ていると,ますますお金を生む大学がもとめられるようになってきているのだと感じます.そして,それは知識のさらなる「集約」を意味すると思います.しかし,大学には研究だけではなく,教育という機能もあったはずです.思えば,大学における一番優れた知識の「再分配」は教育にあるのです.昨今,各方面で引用回数がふえてきた科学コミュニケーションとは,知識の「集約」という流れに異議を唱え,知識の「再分配」という視点を忘れてはならないのではないかという思いや危機感の表れなのかもしれません.

◆もちろん,知識の「集約」と「再分配」は二者択一の問題ではありません.バランスのとれた地点・方法は,どこにあるのか,粘り強く考えていかなければならない問題です.日本でも,もっと議論をしていかなくてはならないでしょう.なぜなら,この問題は少しずつ世界的なルール作り(明らかな欧米主導ですが)がはじまっているところで,日本も主体的に関わっていくべきだと思われます(してるのかな?).国際競争力というクリシェーで表現することもできますが,オープン・パブリッシングをはじめとした知識の「再分配」の問題は,それよりももっと大きな理念みたいなものを生み出すかもしれないからです.上記のオープンソース・バイオロジーもオーストラリアの発祥です.日本は,科学技術立国を標榜する国なのですから,今起きつつある情報の「再分配」という問題に対してユーロセントリックな意見ではない,もっとバランスの取れた行動を示していくチャンスのではないかなどと思うのです.
http://scicom.jp/mailmag/