どうも腑に落ちない。昨夜の幽霊だ。彼女は私の頭の中に、確かにフィルムと響かせた。今朝妻に我が家に現像していないフィルムはあるかと聞いてみたが、答えは否だった。
カメラを確かめたがフィルムは装填されてはいない。
彼女は何を伝えたかったのだろう?
頭のどこかに引っ掛っていると、気分の悪い物である。
始業のベルが鳴り響く。私はハッとして机から出席簿と教科書を手に取り、職員室を出た。
だいたい彼女は何者なんだ?私の記憶には、彼女は教え子としては登場していない。でも、頭の中には彼女の想い出らしきものが引っ掛っているような気がするのだ。恐らくどこかで彼女に出会っているはずだ。
残念な事にはその思い出を完全に引っ張り出すまでは、まだ時間が掛ると云う事だ。うっとうしい幽霊に付き纏われたものである。
自己紹介が遅れた。私の名前は成梨高文。36歳の私立高校の国語教師だ。今は職業として教師を選択したのは誤りであったと思い始めている。我が私立陸島高等学校は偏差値と言うカウントではトップクラスに属する一流の進学校である。私は二年生を受け持っており、生徒数は四十九人だ。
我がクラスの教室のドアを開ける。ドアの向こう側にはキチンと並べられた机に向い、授業の開始を待つ生徒が私に注目する。言葉は何も交わされない。
私は教壇に立ち、決められた挨拶をする。教科書を開き、視線を生徒に向けりる。生徒達は私に視線を集中させている。
皆、同じ顔をしている。これが辛いと感じ始めたのは最近の事である。
表情が無いのだ。誰1人として、楽しい事に笑い、悲しい事に涙する事を知らない。
人形と一緒だ。四十九体の人形の前で私は一人芝居をしなくてはならない。
もっとも私も高校時代はこうだっだろうと考える様になった。かつての自分の表情を写しているだけなのだ、と。
豊かな表情と接した仕事がしたくなったのだ。
私が教師になりたての頃は、私達教育者に反抗する勢いのある生徒と組み合うつもりであったのに、彼らは自ら戦いを挑んでは来なかった。時折私の方から、少しけしかけてみては見る物の、反応はなく、逃げ腰になってしまう。
私もどちらかと言えばスマートな高校生だった。校則に違反した事もないし、三年間おとなしく過ごして来たと自分では思っている。それだけに高校時代の想い出も少なく、また、私にはその時期を忘れたいと思わせる出来事も手伝っているからかも知れない。
彼らはおそらく、この高校を卒業し、大学に進学。一流と言われるような会社に勤め、人としてのエリートコースを歩むだろう。その事について私は何も意見することは出来ない。なぜなら私も彼等と同様の顔をしているからだ。
板書をして振り返れば、彼らは熱心にノートを取っている。私の頃とは違い、寝ている者など一人もいない。
教室の後ろに立ち、彼らの背中越しに黒板を眺めてみると、果たして私の書いたこの文章がこの子達の人生に役に立つのだろうかと疑問に思う。
終業のベルが鳴る。決められた挨拶を交わし、私は教室を後にする。一日約四回、これを繰り返すのだ。苦痛に思えてきては、私に教壇に立つ資格はない。
職員室に戻り自分のデスクに着いた。ポケットからラッキーストライクを取り出し口にくわえ、火をつける。大きく息をつき、煙を吐く。私が学校内で唯一気が抜ける瞬間だ。
私は幽霊の彼女が言った事を考えてみた。
「フィルム」とは何の事だろう。カメラ、つまり写真機に装填するフィルム以外に、フィルムと呼ばれる物に何があるだろうか。
一般的にはセルロイド等の透明物質の上に感光剤を塗った物を、フィルムと言う。映画用の陰画や陽画もそうだ。
映画は学生の頃から好きでよく観るが、自宅ではDVDで観てしまうし、特に同好会にも属していないので、フィルムは私の手の内にはない。
近年になって学校に導入されたパソコンのプログラムフィルムと言うのがあるが、それとはまた意味合いが違うだろう。
その前に。 再び同じ問いが頭をもたげる。
彼女は何者なのだ?14年教師をやって来ているが、彼女は教え子ではない事は間違いない。
叔父の葬式が最近あったが、親類縁者の席に彼女の姿はなかった筈だ。
他には何の心当たりもない。
灰皿に灰を落とした。
「わからねえなぁ…」
思わずつぶやいてしまった。出来る事なら頭を傾け、こめかみの辺りを叩いて耳からボロリと出したいものである。それが出来ないのが何んとも悔しい。
「成梨先生」
考えをあれこれ巡らしたせていた間に、女生徒2人が私の横に立っていた。
「あ……なに?」
タバコを灰皿に押し付け火種を消し、彼女達の方に身体を向けた。
「あのー、よければ放課後に補習をやって欲しいんですけど…」
「え…なんで? どこか分からない所あったかな?」
「いいえ。ただ私達、今日ヒマだから…」
「ヒマ?」
予想外の応えだ。
「はい。今日は予備校もないし、特別用事もないんで」
「馬鹿だなあ、試験までまだ日もあるし、今はゆっくり出来る時期なんだぞ。たまには羽でものばせばいいじゃないか。映画でも、観に行ってこいよ」
あえて私は遊ぶ事を薦めた。彼女達のリアクションを見てみたかったのだ。
「でもぉ、メンドくさいし。一度家に帰るともう外に出たくなくなっちゃうんです」
「最近映画も面白くないし」
彼女達は外で活動する術を忘れているかの様だ。なにもギャーギャー騒げと言っているわけではない。疲れているだろう身体を休める事より、更に身体を使う事を望むのだ。
「そうか…。しかし、せっかくで悪いんだが今日はちょっと用事があるんだ。補習は出来ないんだが、課題をあげるから家でやっておいで」
「スイマセン。ありがとうございます」
彼女達は私に一礼をして、そそくさと職員室を出て行った。私は彼女達の後姿を見ながら大きく伸びをした。
『何を失ってしまったんだろう』 私はそう思っていた。