気の合う仲間達と
楽しい時間を過ごしていると
ふと
この人達と出逢えて、本当に良かった
と思う瞬間がある。

それぞれ違った場所で
それぞれ違った時間に
この世に生を授かって
それぞれが違う人生を歩み
それぞれが違う考えを持ち
それぞれが違う喜びや悲しみを経験してきたのに
「今」という一点で互いに交錯している。

この事実と向き合ったとき
気が遠くなるような奇跡が今まさに起きていることに
何とも言えない不思議な感覚に襲われる。

そして
この奇跡を共有している人達が
妙に愛おしくなって
大好きになって
自分にとって大切な存在になっていることに気付いたとき
その人達の向こう側に広がる世界までもが
愛しくなってくる。

その人達を育て上げた両親
兄弟や親戚やいとこ
友達や学校の先生
生まれ育った土地や環境
その人達が経てきたもの全て
それらがあったからこそ
その人達がここに居て
今、こうして楽しい時間が過ごせている。

人を愛せば愛する程
私が今暮らしている
この「郷土(クニ)」があらわれてくる。

心の底からふつふつと沸き上がるのは
それら全てに対する
「感謝」という
ありがたい気持ち。

これこそが
「アイデンティティ」の根底。
これらを守る為に人は
時として戦い
血を流し
涙を浮かべる。

「私が私である理由」

私が私として一人で立つためには
私以外の人達が必要である。
それに気付くことが出来たなら・・・
それをちゃんと理解出来たなら・・・

何かの偶然でうまれた私のこの命
愛すべき人達の為に捧げることだって
厭わなく思う。
例えば多くの人が何気に使っている『愛』という言葉。
その言葉をその人が今に至るまでに
どのような状況で
どのような心境で
どのような事を表現しようとして
用いてきた方によってその『愛』という言葉の意味合いは異なってくる。

もちろん辞書的な意味はある。
だが辞書的な意味はある時期での使われ方を概説した程度の意味合いしか持ち得ない。
それは若者が新しい意味で『やばい』という語を用いている事からも明らかである。

つまり正しい日本語なんてものは存在しないのだ。

言葉は常に生々流転の存在なのだ。
その最たる例が『全然』であろう。
ちょっと勉強した奴がさも偉そうにこうのたまう。

『「全然」っていう言葉は否定を伴って使わなあかんから、「全然大丈夫!」なんて使い方は間違ってる!』

はたして本当に間違っているのか?
そもそも何と比較して間違っているのか?
歴史的な用法から逸脱しているという意味で間違っていると言っているのなら
それはもう無知の大罪としか言いようがない。
源氏物語や枕草子といった華やかな貴族文化が栄えた時代
否定語を伴わない「全然」という語は存在していた。
あまりにも狭い視野で物事の善悪を判断している。
自己客観視の出来ない人は時として傲慢だ。

あやふやな「言葉」を用いているのにもかかわらず
話せば何でも人に伝わると人は安易に考えすぎなのではないか?
そして
話して貰えれば全てを理解出来ると安易に考えすぎではないか?
人を理解するのはほとほと遠い道のりなのだから。

どんなに分かりやすく表現しようとも人に伝わらないときはある。
この人は何を伝えようとしているのか?
この人は何を表現しようとしているのか?
本当に相手のことを理解したいのならこの疑問は不可欠なはずである。

人の話をしっかりと聞ける人間は本当に少ないよなぁ~と思う今日この頃である。

ブログのタイトルを何にしようかと想いを巡らせて


ふと、「無情」という言葉を思いつきました。


そこから派生して「無常」という言葉も出てきました。


いっそどちらも入れてしまえと思い、こんなタイトルにしてみました。


ちょっとカッコイイ感じに仕上げたかったのでまぁまぁ上出来のような気がします。


さて、タイトルは決めたものの内容については全く考えていませんでした。


どうしようかと考えて、「無常」で思いつくことを考えてみました。


いろいろと思い出しながら出てきたのは


「○○の河は絶えずして、ホニャララ~…」


っていう高校時代の古典の授業でならった何かの冒頭でした。


なんやったっけかなぁ~と記憶を辿って


適当に「鴨長明」でグーグル検索したら…


ビンゴ!


鴨長明 『方丈記』


俺ってすげぇ~とまた軽いナルチシズムに浸りながら


やっぱりまだ何を書くか全然思いつきません。


なので耳学問ですけど


ちょっと博識をひけらかしてみたいと思います。


今回のテーマは「無常観」です。




では、先ほども出てきましたが鴨長明の『方丈記』の冒頭を抜粋してみましょう。




ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。


よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。


世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。




正確な意味はwikipediaで調べてください。


なので僕なりに簡単に言い換えてみます。




「流れいく河の水っていうのは、常に動いてもとの形ってもんがない。


水面に浮かぶ泡なんて、消えたりまた出来たり、ずっとそこにあるなんて状況ありえへん。


あぁ、世の中の人や家とか、それも全く同じやなぁ。」




関西弁になっちゃいました。


当時、鴨長明が生きていた時代っていうのは戦乱や争乱でもうむちゃくちゃやったみたいです。


家とか建ててもすぐぐっちゃぐちゃになるし


せっかく仲良くなった人達も次に会うときにはもうこの世の中にいなかったり。



いつまでもあり続けるであろうと思っていたことは


いつの日かもう存在し得ないものになってしまっている。


常なるものはこの世には存在し無い。


まさに「無常観」です。




そこに儚さや虚しさといったネガティブな想いを抱いたのがこの鴨長明の「方丈記」で


常に同じ状況がたたずむことがないからこそ人生は楽しいものなんだ!とポジティブに捉えていたのが


吉田兼好の「徒然草」だ


って聞いたことがあるような無いような…


ここらへんは凄く記憶が曖昧なので流してください。


ただ、一つ言えることは


「無常観」という考え方が、時代の変遷によって人々のとらえ方が変わっていったってことです。




何かを願えば願うほど、この世はゆく河にように流れまどいます。


無常が無情に感じることもあります。


でも…


こんな世の中だからこそ、味わえる醍醐味ってのがあると思う。




みなさんは、「無常」についてどんな想いを抱くでしょうか?